「たぶんほかの場所で殺した後、ここまで持ってきて投げ込まれたのだろうというが、不審なのは…」
早くも捜査の難航が予想された。推定年齢は30代から40代まで新聞によってバラバラ。報知は「(現場近くの)お茶の水橋の際には派出所もあるので、たぶんほかの場所で殺した後、ここまで持ってきて投げ込まれたのだろうというが、不審なのは、女性の黒髪で、根本からむしり取られたり切り取られていた」と書いた。
萬朝報の記事には「お茶の水川」とあるが、正確には神田川。報知の記事にある「お茶の水橋」は事件の6年前、1891年に架けられた。五味碧水「お茶の水物語」(1985年)によれば、「お茶の水」は橋や駅(国鉄=現JR)以外には使われていない。
江戸時代の絵図や明治時代の測量図などにはお茶の水橋から少し離れた神田川の水面上に「俚称(地域で呼びならわしている名前)御茶の水」などと記入されており、元々は神田川の一部分に付けられた名称と思われる。
元々は、この辺りにあった高林寺の境内に清水が噴出して評判になり、徳川3代将軍家光が献上させたことから、高林寺が「御茶の水」と別称されるようになった。神田川は井の頭池を源に東に流れて隅田川に合流するが、江戸時代以前からたびたび氾濫。
そのため、本郷台地を掘削したバイパスの放水路が2代将軍秀忠の時代に完成し、現場付近は「茗渓」と呼ばれる人工の谷となった。橋の上からの眺めが絶景だとして景勝地になり、「三国志」の「赤壁の戦い」で有名な中国の赤壁になぞらえて「小赤壁」とも呼ばれた。
「遊び人の犯行」なのか?
その29日付時事新報は東京帝国大学医科大学(現東大医学部)法医学教室での解剖結果として「死者は大酒したことは間違いなく、あるいは5合(900cc)以上の量だろう」と記述。被害者の身元を「待合か料理屋にいた者」「侠客肌の外妾」とし、犯人については「いずれにしても遊び人の犯行」と推理した。
ほかの新聞も周辺のうわさや現場付近にあった物などから被害者の身元、犯人像について好き勝手に書き始めた。「田舎料理屋の酌女」=30日付東京日日(東日、現毎日新聞)、「髪結い」(同日付報知)……。同日付時事新報は次のような想像のストーリーを載せている。
東北地方の遊び人が茶店の女性や囲い者(妾)などの対応に満足せず、だまして東京に連れてきた。一緒に酒を飲み交わしたうえ、これまでの恨みの数々を並べたが、女は意に添わず「一思いに殺して」と言いだした。2人とも引くに引けなくなり、犯行に及んだ――。