子供たちは大人を恨んで死んでいった
このように、重度のがんになった子供たちの多くは、息絶える直前まで体にメスを入れられ、抗がん剤を投与されるのが通例だった。原が担当した子供たちもそうだった。
原はこうした子供たちの話になると、天を仰ぐようにして語る。
「子供たちは大人を恨んで死んでいきました……。うちは黙って言うことを聞いてがんばったのに、なぜ死ななければならんのや、なんでこんなになるまで『治る』『がんばれ』って言ってだましたんやって眼差(まなざ)しで医者を見つめてくる。親に対してもそうです。
子供にしてみれば、そりゃそうですよね。あれだけ真実を隠されて、あれこれ規則でがんじがらめにされて、何年にもわたって苦しい思いをさせられたのに、病名さえつげられないまま助けてもらえない。恨むのは当たり前なんです。
あの子たちの恨みがましい目は今でも脳裏に焼きついています。一生離れないでしょう。僕としてはそれが悔しくて、今度こそ絶対にがんを治すと心に誓って治療に励むんですが、やっぱりどうやっても助けられない子が出てくる。2、3人のうち1人はそうなんです。
僕は医者っていうのはなんて孤独な仕事なんだろうと思っていました。これが医者の役割なんやろうか。ほんまに家族にとっていいことをしているんやろうか。ずっとそう自問自答していました」
親にとって医者は「子供を殺した人間」だった
病室で原に恨めしそうな目を向けたのは、死んでいく子供だけではなかった。医師を信じてついてきた両親やきょうだいも同じだった。
彼らは24時間付き添いを強いられ、夫婦仲が壊れても、親子関係が悪くなっても、貯金が底をついても、子供の命を救ってもらいたいという一心で治療に協力した。
それなのに、子供は苦しむだけ苦しんで息を引き取る。遺体を抱きかかえて家に帰ったところで、日常にもどれるわけなどない。闘病に明け暮れたので、子供との楽しい記憶さえない。
家族の中には医師に怒りをぶつける者もいた。ある親はこう叫んだ。
「先生が、治してくれるんやなかったんですか! なぜ死なせたんですか!」
原は返す言葉が見つからず、逃げるようにその場を離れることしかできなかった。
彼は言う。
「あの時代は、医者が遺族と連絡をとったり、会ったりということはありえませんでした。患者が亡くなった時点で、親は医者を『子供を殺した人間』という目で見てきましたし、医者の方も力不足で死なせてしまったという罪悪感でいっぱいでした。医者は敗北者なんです。だから、遺族に顔向けできず、関係を断ち切るというのが普通だったんです」
安道照子はNPO法人エスビューローを立ち上げる際、原の協力を得ることになる。その時、後に離婚する夫からは「なんで息子を殺した医者と仲良くするんや!」と非難されたという。遺族にとって、医師は憎むべき相手だったのである。(#2へ続く)
