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緩和ケアという言葉すらなく延命させるしかなかった頃

 治療が八方ふさがりになっても、医師が白旗を揚げることは許されず、命の炎が消えるまで手を尽くさなければならなかった。余命宣告はせず、全身にチューブをつけて栄養や薬品を大量に注入し、せん妄(意識障害)が現れても「がんばれ!」と言いつづける。

「弱って飲食ができないのに無理やり点滴をすると、患者さんの体は水がたまって変形していくんですよ。栄養や薬を吸収することができないんです。体はむくみ、肌も変色します。

 あの当時は緩和ケアという言葉すらなかったので、『痛みを極力抑えて静かに看取(みと)りましょう』なんて提言はできませんでした。だから、最期(さいご)の最期まで患者が苦しむのをわかっていながら、延命させるしかなかったんです」

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 緩和ケアには鎮痛剤等が必要だが、そうした薬もほとんどなかった。1989年になってようやくモルヒネ系の鎮痛剤である「MSコンチン」が発売されたが、2時間しか効果が持続しない上に、成人用の製品しか販売されていなかった。

 日本で緩和用の薬が本格的に流通しだしたのは、2000年代以降で、小児用の薬はさらに後だった。小児用の薬が製造されなかった背景には、小児がんの発生数が少ないことがある。製薬会社からすれば開発したところでほとんど利益にならないため、後回しにされたのだ。また、子供にはモルヒネをつかってはいけないという風潮も根強かった。

 こうした状況の中では、親の方も最後まであきらめずに治療を望むのが当然だった。親にしてみれば、医師から絶対に助からないとつげられない限り、なんとかわが子を治してもらいたいと思う。

手術を受けても1、2カ月の命だった幼児

 阪大病院時代のことで原が覚えているのは、白血病に侵された1歳の女の子だ。原は幼い女の子の体に鞭(むち)を打つように過酷な治療をつづけたものの、死が不可避なものとして面前に迫ってきた。治療をしてもしなくても、1、2カ月の命であることは明らかだった。

 30代の両親は抗がん剤が効かないとわかると、最終手段として兵庫医科大学病院へ行って骨髄移植を受けさせたいと言いだした。だが、女の子の年齢や病状を考えれば、手術を受けたところで快復の見込みはない。むしろ体力をムダに奪うだけだ。

 原は両親に思い切ってそれを伝えた。両親にしてみれば、すんなり受け入れられるはずがなかった。

「うちら、絶対にあきらめられません! 何としてでもこの子を救いたいんです。だから、移植手術をさせます!」

 両親は女の子を兵庫医科大学病院へ移し、骨髄移植の手術を受けさせた。しかし、1カ月後に女の子はこの世を去った。