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 どのような場面を語るときも、「悲劇」を押し付けることにならないよう、一方的な物言いにならないよう、微笑をあえて絶やさなかった大島の声は、妹の名を呼ぶときはわずかに震えた。

「覚えていますよ」

 ご飯も食べられず、弱っていた美津子ちゃんはうつらうつらし、母はほおずりしながらしばらく抱きしめていた。眠ると、毛布を敷いてそっと寝かせた。それから軍刀を抜いたのだった。

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 美津子ちゃんの次は、弟と自分の番だ。壕内ではすでに自決のための長い列ができ、最初は銃撃だった自決のほう助も、銃声がすればソ連軍に見つかるからと、途中から刀に切り替わっていた。3人ほどの男たちが刀で列に並ぶ人たちの介錯(かいしゃく)をしていく。

 すぐに絶命する人ばかりではない。急所を正確に突けないと、首を押さえて血まみれのままのたうち回ったり、立ち上がってしまう人もいた。「御免!」の声とともに振り下ろされた刀が女性の首を飛ばす光景。その傍らで、突然、子どもたちによる最後の晩餐がはじまる。

 戦車に応戦して爆死した国民学校の校長先生の娘・蓉子ちゃんは食料を持っていた。彼女が呼びかけたのだった。お母さんも撃たれて亡くなり、大島より少し年上の蓉子ちゃんは赤ん坊を背負い、弟の手をひき、大島たちと一緒にいた。後ろで、傷付いた人々の自決が続く前で、彼女はいきなり、そしてつとめて明るく、「さあみんなここへ集まって」「これからママゴトがはじまるみたいね!」と、亡くなった母の横で角砂糖や干しうどんをふるまいだした。大島もひとつもらい、ボリボリと生のままかじった。――これから、僕ら、死ぬのに。味のない味を、今も覚えている。

「葛根廟事件」当時の状況を話す大島満吉氏

自決にこだわった母の気持ち

 さあまもなく自分の番か……と思った矢先、介錯し続けていた3人の大人たちは疲れのためタバコ休憩に。ちょうどそのときだった。奇跡的に生き残っていた父と兄が飛び込んできたではないか! 大島少年と弟、母を見つけ、列から引きはがしてくれたのだ。これで彼は、生き残った。あのままだったら――そのときの母の気持ちを、大島は振り返る。

「僕は自決に並んで、順番が来た時にね、母がなんて言うかなってのは、後で考えたんだよね。おそらく私に、『お前はどうしても死にたくないのか』と。ないんだったらね、『生きるところまで、自分で生きてみるか』と。でももう誰も助けてくれないよ。ここで死なないんだったら、お前1人で行けるところまで行くか。おそらくね、母は最後に言ったんだろうなとは思うよ」

 もし列に並んだままだったなら、最期のとき、母は何と言ってくれただろうか、僕のことも殺めただろうか――いや、違う。――大島はこう解釈して、戦後七十余年、気持ちの平穏を守ってきたのかもしれない。年月を重ねるうち、自決をしたがった母の気持ちがもう1つ分かってきた。「これは今まで話していないのだけど」と前置きし、

「母はあのとき妊娠していたの。(事件後、避難民を収容した)新京(満州国の首都。現在の吉林省長春市)で生んだけどね、育つことは最初からもうないんだから。お乳は出ないわ、暖房はないわ、オムツは替えられないわで。難民生活だから。生まれたらもう何日か泣かしとくだけで、結局もう育たないってのは、私たちだってなんとなくわかりますよね。そこまで追い込まれてる。たまたま新京の家の中で生まれたけど草原のままで産んでいたら。だから母は自決にこだわったんだなと」