老人、女性、子ども主体の集団。執拗な攻撃によって、生き残れたのは400人ほどしかいなかったとみられ、さらに翌年になって帰国できたのは、たったの百数十人に過ぎなかった。正確な犠牲者数は今もって分からない。
集団は、日本人居留民たち。ソ連の対日参戦を知り、葛根廟(かっこんびょう)と呼ばれるラマ教寺院に向け、8月11日から逃避行を続けていた。彼ら彼女らは興安街(こうあんがい。現・内モンゴル自治区ウランホト市)という市街地に住んでいた人々。
馬車や自動車はなく、8月の平原の陽ざしに炙られ、渇きに耐えながら歩き続ける人々は疲れ切り、遅れる人も目立ち始め、隊列は蛇行して長くのびていった。そこへ突如としてソ連戦車部隊(14台とも言われる)が現れ、1時間以上に渡って徹底的な攻撃を加えたのだった。これを「葛根廟事件」という。
避難民に混じっていた在郷軍人たちが、身辺警護用の小銃などわずかな武器を持っていたために、ソ連軍に敵と見なされ攻撃を受けたとも考えられたが、一見して非戦闘員と分かる民間人の集団を一方的に攻撃した理由は不明。ソ連側の戦史には戦闘の記述は一行もない。
痛い、痛い、と泣く娘を「お母さん、首を締めちゃった」
襲撃直後、避難民を指揮した浅野(良三)隊長は白旗をあげて、戦車へ近づいたというが、真っ先に殺害され、最期を見たものはいない。彼の死を皮切りに避難民への攻撃がはじまる。身を隠すものもない草原で伏したまま戦車に踏みつぶされた人々、天然の壕(平原の大きなくぼ地、溝)に逃げ込みながらも、そこまで下りてきたソ連兵たちの乱射で折り重なって亡くなった人々。女や子どもの悲鳴が響く草原で、血の海で死んでいる母にすがりつく赤ん坊。からくも壕のなかに逃げ込んだ人たちのなかに、9歳の大島もいた。
母と5歳の弟、2歳の妹と4人だった。一緒にいた兄と父は、隊列が何キロにも及ぶうちいつしか離れて消息がわからなくなっていた。1時間半ほどの攻撃がやむとソ連軍は去り、あたりが静まる。おびただしい遺体の中、生き残ったわずかな人々には水も食料も医薬品もほとんどなく、男手も少なかった。疲れ切り傷付いた女たちは、子どもを連れて、どこへ行くあてもない。戻るにしても興安街はすでに暴動が起きているという。大島少年が父を探し付近をさまよっていると、顔見知りの女の子とその母に会う。娘は重傷を負っていた。