母の存命中、美津子ちゃんのこともその下の名前も付けられなかった赤ちゃんのことも、写真1枚さえない2人の最期が話題にあがることはなかった。外部へも、母の死後、発表した。
避難よりも自決を勧めた指揮官の責任は
話すことなどできない。死んだ者と生き残った者、という意識。
2年生の娘・恵子ちゃんを2度も手にかけてしまったHさん。じつは戦後、生還している。
「新京で行き会った。新京ではHさん、逃げるようにしてね、絶対口きかなかった。絶対。やっぱり話せないんだね」
「話せない」、ということについて重ねて聞く。――集団自決の介添えをしていた在郷軍人3人、戦後も生き延びたと大島さんの手記にちらと書いてありましたが。
「……あの時に(自殺のほう助を)やってた人ってのはね、Xさん(取材時実名)たち3人くらいがいたんだと私は思う。Xさん、戦後に、毎回五百羅漢寺の慰霊に来てくれた。でも戦争の現場の話になるとしない。(生存者の)みんなが『Xさんだけは知ってるでしょ』って聞こうとするわけよ。でも時を見計らって、さっと帰っちゃうわけね」
目黒の五百羅漢寺は、大島ら事件の生存者・遺族による慰霊団体「興安街命日会」による慰霊祭が毎年行われるお寺。諦めきれない大島は、X氏の死後、北関東に住む遺族に連絡をとった。
「Xさんの自宅は分かっているわけ。奥さんは現場で亡くなっているけどね。電話したらね、女性の方が出た。何か書き残してるものはないんでしょうかと聞いたら、ない、と。ないんだけど……じゃあなぜ残さないんだとね。偉い方だったんだから。いろんな状況の最後の結末、一番よく知ってるはずなわけだから」
戦争の記憶は確かに風化してきている。裏腹に、当事者が鬼籍に入ることで人間関係・利害関係も希薄化して、これまで話されなかった部分が、顔を出すこともある。私は一瞬、それに触れた気がした。
「小さい子は親が手をかけなさいと(X氏たち)指揮官の人が言った。……あの時に『私たちでよければ行けるところまで行くつもりだから、全部守りきれないかもしれないけど、ついてきて』と(指導者たちが)言ってくれたんなら、みんなおそらくついてったと思うよ」
ほほえみのまま、さらりと大島は言う。生存者・遺族の慰霊への気持ちは一枚岩なれど、奥底に潜む別の気持ちがにじんでくる。
言うまでもなくX氏も受難者である。ただし加害性も併せ持っている。日本人の名誉か、貞潔か、何を守ろうとしたかもう分からないが、避難よりも自決を勧め、ほう助しながら、自分は生き残った責任はそこに発生しないか。組織内での力関係として上位の者が、下位にあった女性や子どもたちに死を強いた面とその責任。「話せない人」のなかに、「話さないとならない人」はいたように思う。「話した人」の証言だけで歴史は書かれる。ここが難しい。
・参考文献
『葛根廟事件の証言 ―草原の惨劇・平和への祈り』(興安街命日会編 新風書房)
『流れ星のかなた コルチン平原を血に染めて』(大島満吉 大嶋宏生著)
『炎昼 私説 葛根廟事件』(大櫛戊辰著 文芸社)
取材協力:平和祈念展示資料館