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「残ったのは2軒だけ。みんな亡くなった」青森駅前にポツンとある“ボロボロの歓楽街”…地元民に聞いてわかった「昭和の秘境」の“意外な歴史”

酒と色が混ざり合う「第三新興街」

2023/12/10

genre : ライフ, 社会

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 昭和20年7月、終戦前月に行われた青森空襲によって市内各所は焦土となってしまった。ただ、青森駅は奇跡的に焼け残ったことで、戦争が終わるや間を置かずに東北本線、奥羽本線が動き出し、交通の要として駅周辺には焼け出された人々が集まりだした。

昭和20年9月25日の撮影。古川跨線橋付近から米陸軍第81師団が行進している様子を米軍機が撮影したもの。空襲によって、一面瓦礫の山である(提供:青森空襲を記録する会)

 また建物疎開(空襲の延焼を防ぐためあらかじめ建物を取り壊しておく処置)により駅前には空き地ができていたので、物資払底の時期、ここに統制外の闇ルートで物を売り買いする露店が生まれる。それは次第に線路に沿って南へと伸びていき、現在の古川跨線橋にまで続く一大露店街となった。これが終戦翌年には長屋風に改められる。その名が、「新興街」だった。

第三新興街が建て替えもされずに残れた理由

 ところがこの新興街、昭和22年に火災で焼失。当時、燃えやすいバラック街の火事はあちこちのマーケット街で頻発していた。新興街は再建されたものの、そこに入れなかったか、入らなかったと思われる一部の露店商たちは別の場所で再び寄り集まった。それが、第三新興街なのである。営業開始は、昭和24年。堤新興街などというのもあったと聞くので、同時期・同類の集団移転バラック・マーケットが付近に先に作られ、おそらくここは第3番目の竣工だったのだろう。

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 2坪、3坪という闇市以来の極めて小さなスペースは、年月を経るうちに、物販店が減り、客単価をあげやすく元手が少なくとも始めやすい飲み屋に置き換わっていくことが多い。おそらくここは、昭和40年代くらいには飲み屋街化していたと筆者は推測している。そしてここが建て替えもされずぽつんと残れた理由は、ほかの街の古い飲み屋街で私が繰り返し聞いた理由とほぼ同じ。戦後以来、各区画ごとにオーナーが違うのだ。おかあさんは教えてくれた。

「土地の所有者も経営者(建物所有者を言っている)もみんな違うから。土地持ってた人も死んで、東京に行ってるかもわからねえし」

昭和期は酒と色がまざりあう歓楽街だった

 おかあさんは、戦後以来ではないものの、長屋の一角でもう40年余り飲み屋を営業している。移転から30年ほどが経過した、昭和末期ごろの第三新興街はどんな風景だったのか。おかあさんは、あえて自虐を交えて教えてくれた。

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