「青森はさ、東京とは違って、なんもねえんだ。このへんでは、昔は男の人たちが(成人)映画館に並んだし、ストリップもあった。あと腰の高さの板に穴をあけて……そういうのもあったって」
いわゆるラッキーホールのことを言っていると思われる。男性の腰の高さに開けた穴の向こうにはサービスを行う女性がいる。この木造長屋群に限らず、周辺を含めて、昭和期は酒と色がまざりあう歓楽街だったのだ。
「やっぱり男の人はな、ときどきはけ口なければな、お母ちゃんとだけな、あれやっててもな。たまには羽目をはずして遊びもしたほうがいい。お母ちゃんのほうもあれが得意じゃないから、お金払ってやってきてよ、っていう人もいる。おとうちゃんが2階あがって、1階でお母ちゃんが待ってた、そういう話もある」
飲む客、遊ぶ客の棲み分けは…
現在では許容されない昭和の倫理を話す、おかあさん。ちなみに、このあと近くの居酒屋で出会った親父さんは、わざわざ店を出てこの路地まで私と歩いてきて、ひとつの2階家を指さしながら、「2階が置き屋だったんだ。俺は『第三』で女性を覚えた」と教えてくれた。
私は似た話を、全国あちこちの古い盛り場で古老たちから聞いたし、上述の倫理のもとに建てられた当時の建物を、実際に見もした。
たとえば、北のある酒場通りには、屋号の看板をかかげたオモテ側階段から客が入り、帰るときは、別の客と顔をあわせないよう裏路地へ抜けられるよう設計された長屋があった。
街区のなかで色と酒がゾーニングされない時代、飲む客、遊ぶ客の棲み分けは、現場の建物自体に工夫を施すことで解決していたのだろう。昭和33年まで、半ば当局公認で売春が行われていた指定地「赤線」に対して、非公認という意味で、こういうあいまいな場所を「青線」と呼んでいた地元の人々もいる(厳密には定義が違うのだが)。