「(あなたの)ご両親から寺岡先生と話すように言われたので、そのようにしました。妹さんの病気は日本語で『劇症肝炎』といいます。E型(肝炎)は、発症すると意識を失い、2日以内に昏睡状態になります。たったの2日で昏睡になるんです。E型というのは、食べ物や飲み物などで感染します。もともと妹さんの身体が弱ければ死にます。是非、妹さんの写真を1枚いただけませんか? 新宿ヒルトンホテルに持ってきてください。ホテルマンが預かってくれます」
サマンサは織原に、「直接会いたい」と訴える。織原の返事はこうだ。
「わかっています。妹さんのお墓参りに行く時、あなたがオーストラリアにいらっしゃれば、そちらで必ずお会いすることを約束します」
手帳に記された「没」の文字
カリタの母親に国際電話をかけた丸山管理官の話によれば、カリタが日本で死亡したのは平成4年(1992年)の2月29日。死因は劇症肝炎だった。能率手帳に記述された「没」の文字は、このことを示しているのだろう。
母親の証言によると、「カリタはニシダを名乗る男性と1992年の2月14日に鎌倉へ出かけ、翌日には体調を崩して病院に運び込まれた」
その後2週間ほどで、カリタは帰らぬ人になったのだと言う。
当時、妹のカリタと一緒に日本で暮らしていたサマンサは、妹を鎌倉へ誘った経緯についても織原から答えを引き出している。
「鎌倉へ行きたいと言い出したのは彼女のほうで、私から誘ったのではない。2人で鎌倉へ行ったのは初めてで、前もって計画を立てていたわけではなかった……」
別のテープの日時は「平成4年2月22日午後0時2分」。カリタが織原と鎌倉へ出かけた8日後の日付であることがわかる。
なぜ肝不全に陥ったのか
織原が電話をかけた相手は、サマンサの恋人である内海直人(仮名)。日本人男性だ。内海はカリタの容態について説明し、鎌倉でカリタを診療した病院を調べるよう、織原に要望する。カリタが著しい肝機能低下に陥ったのは、薬物が原因であることも告げた。
話題の中心は、カリタがなぜ肝不全に陥ったのか、ほぼその一点に絞られていく。
この時、カリタは入院中で生死の境をさまよっていたらしい。内海は、医師から受けた説明を織原に伝える。
「ウイルス反応が出ないんです。だから薬物以外には考えられないそうです。鎌倉でカリタを診た医師が、どんな薬を使ったのか、それが知りたい」
薬の種類や投薬量がわかれば、病院のベッドで苦しんでいるカリタの治療にも役立つはずだ。しかし織原は、誰が最初に鎌倉で診療したのか、その担当医について調べてほしいという内海の要望に、「はい」と応じるだけで明確な返答をしない。
その一方で、織原はこんな答え方をしている。