「地震が発生した瞬間に工場内が大きく揺れて、生産ラインのウエハーがバラバラと床に落ちた。工場内の地震計はマグニチュード5.3を指していた。普段の避難訓練の経験が私に『すぐにここから逃げろ!』と告げていた」
これは、当時工場内にいた従業員の体験談である。
また、台湾は地震帯に位置するため、工場には地震計が設置されており、マグニチュード4以上を検知したら警報システムが作動して、全従業員に避難を促す仕組みになっていた。さらに地震発生と同時に工場内の各種ガス弁も遮断されたため、有毒ガスや化学物質が漏れることもなかった。そして非常用予備発電装置が起動して、炉心管を始めとする重要な精密機器を動かし続けてくれた。
地震は深夜に発生したため、夜勤中の従業員を除き、設備エンジニアも工場管理エンジニアも不在だった。夜勤の従業員らが工場から避難すると、いつもなら24時間体制で稼働しているはずの工場が静まりかえり、建屋内の自家発電装置だけが唸りながら、通常の2割から3割の電力で工場を維持した。
あの夜、サイエンスパークでエンジニアたちは…
夢から叩き起こされたエンジニアにとって、非常に深刻な事態が起きたことは明白だった。あの夜、製品を救う手立てを話し合うために部門内のエンジニアのほぼ全員が工場にかけつけたため、深夜の新竹サイエンスパークの道路が彼らの車で埋まってしまった、とある工場管理エンジニアは回想している。
当時、台湾の半導体企業のほとんどが新竹サイエンスパークに集中し、パーク内には26もの工場があった。震源地は台湾中部の南投県だったため、最も被害が大きかったのが中部と新竹の工場だった。ウエハー以外にも多くの製品がダメになり、石英炉心管の多くが砕け散った。そして数多くの高精度機器も破損したため、設備や部品を直ちに買い直さなければならなかった。
サイエンスパーク第期分譲エリアのマクロニクス・インターナショナル(旺宏電子)第2工場を例に挙げる。この年の11月に雑誌「遠見」に掲載された記事によると、この工場ではまず、地震による水道管の破裂を応急処置して、午前4時に冷却機を起動させた。空が白んだころにクリーンルームの環境が正常に回復し始めたため、安全確認を終えたエンジニアたちが現場に入って片付けと検査を行った。そして設備メーカーのエンジニアに電話をかけて設備の調整を依頼し、各国のサプライヤーに交換部品を発注した。