人の姿が見えない都市の風景や、まるで生きているかのようなマネキン人形のポートレート……。美しくも摩訶不思議な画面を眺めていると、絵の中に吸い込まれ戻って来られない気がして、背筋がヒヤリとする。

 納涼にもよさそうな絵画の数々を観られる展覧会が、東京上野の東京都美術館で開催中だ。ジョルジョ・デ・キリコの数奇な生涯を作品でたどる「デ・キリコ展」。

 

ニーチェの思想をもとにした「形而上絵画」

 19世紀末にギリシャで生まれたデ・キリコは、両親の故郷であるイタリアに移住して絵を描き始めた。すぐに頭角を現して独自の画境を切り拓き、20世紀を代表する画家のひとりとなっていく。

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 20世紀前半の絵画の世界といえば、ピカソにマティス、抽象画の先駆となったカンディンスキーやクレー、現代美術の創始とされるマルセル・デュシャン、シュルレアリスムを推し進めたダリ、マグリットなどと多士済済。デ・キリコもそこに名を連ねる存在だが、特徴的なのは彼が徹底して孤高であること。

 他のビッグネームがたいてい流派や潮流をかたちづくっているのに対して、デ・キリコはどんな派にも属さず、似た画風を持つ者もいない。ということは、オリジナリティの強烈さでいえば、ピカソらを抑えて彼が20世紀でナンバー・ワンと言っていい。

 そんなデ・キリコの最もよく知られているイメージは、1910年代より始まる「形而上絵画」と名付けられた作品群だ。

 たとえば《予言者》には、古い様式の建築やイーゼル、定規とともに、マネキンが前景にどんと座り込んでいる。一つひとつの事物は伝統的な絵画表現技法を用いて描かれるのだが、それぞれを組み合わせるとずいぶんチグハグな印象となって、居心地が悪そう。明晰な絵画を眺めているはずなのに、拭いようのない違和感が心の中に残って、観る側としてはどうにもモヤモヤする。

《予言者》1914-15年 ニューヨーク近代美術館(James Thrall Soby Bequest)

《バラ色の塔のあるイタリア広場》のほうは風景画で、荒涼とした古いヨーロッパの町並みを思わせる。こちらも各要素は変哲のないものだが、どこかが奇妙。家屋は見えるも人の姿は皆無だし、時代や場所を特定するとっかかりもない。遠くのものがあまりにはっきり見えたりと、画面に見入るほど遠近感も狂っているように感じられる。

《バラ色の塔のあるイタリア広場》1934年頃 トレント・エ・ロヴェレート近現代美術館(L.F.コレクションより長期貸与)

 すべてが明瞭に見ているにもかかわらず、そこから何の意味も読み取れず、どこか焦りの気持ちを掻き立てられる。おそらくこんな光景はどこにも実在せず、描き手の心象風景なのだろう。

 デ・キリコが「形而上絵画」でやっていたのは、見たまま・見えたままを写実的に描き出すことではない。そうではなくて、彼が見たいビジョンを、絵に落とし込んでいたのだ。

 この形而上絵画の発想は、若いころより哲学や文学に傾倒してきたところから生じたようだ。デ・キリコはニーチェの哲学書を愛読しており、永劫回帰を説くニーチェ思想にヒントを得て、あの時間の感覚が狂ったような絵画世界を編み出したのである。