1ページ目から読む
2/4ページ目

「それほど自分の体が汚くなったのかと…」被爆者の女性が語った、本当の苦しみ

ADVERTISEMENT

 病院へ行ってもけが人がいっぱいで診てもらえず、防空壕へ。大けがでしばらくの間は何の記憶もなかった。「人の話では、気がだいぶ狂って、毎日歌を歌ったり、どんどこどんどこ騒ぐので、皆に嫌われるから近所の人たちと一緒にいられず、ガス会社の破れた屋根の下の、畳1枚ぐらい残っていた草の上に一人寝転んで、やけどまみれの体で、ひどい出血も自分では手当ができず、ただ騒いでいたそうです」。辛うじて死は免れたが、本当の苦しみはそれからだった。

苦しみを訴える「ミキ」に「よね」は「声を上げた女に、この社会は容赦なく石を投げてくる。傷つかないなんて無理だ」と声を掛けた(NHK『虎に翼』公式Xより)

 主人は、私のように2つの瞳には星ができ、人一倍ひどいケロイドで、肩などは肉の上にすぐ皮がついている所もある、昔の肌色は下腹のほんの少しの所だけになってしまった女でも、「マキ子、マキ子」といって大事にしてくれました。(昭和)23(1948)年5月に流産して、その後また妊娠したころから、主人は店(八百屋)を人に預けて酒を飲み歩いて、家にはめったに帰らなくなりました。その年の暮には店を売り、24(1949)年の春から市の失業対策の仕事に出て、その年の5月に娘が生まれるころからは、もうほとんど家に帰ってこなくなりました。26(1951)年に広島でスポーツ博覧会(国民体育大会か)があって、主人は失業対策からそちらの仕事へ回り、そこへ来たサーカスに雇われて出て行ってしまい、今ではどこにいるか、居所も分からなくなってしまいました。
 

 主人が金を出さなくなってからは、ボロ買いをしたりくず拾いをしたりして子どもを育てておりましたが、少し気がもむことがあると、頭がふーっとして分からなくなったり、出血したりするので暮らしが立たず、26年の秋からは民生委員に頼んで生活保護を受けるようになりました。それだけではどうにもやれないので、27(1952)年の正月からは市の失対事業の労働に出るようになりました。失業対策に出て働いて、貧困者の生活保護をもらっても、私は困ることばかりです。
 

 去年の夏ごろ、風呂屋のおかみさんから「あんたはしばらく遠慮してもらいたい」と言われましたので、私は子どもがいたずらだからだろうと早合点しまして、子どもたちをひどく行儀して(言い聞かせて)おとなしくなりましたので、またお風呂へ連れて行きました。ところがおかみさんは「あんたが入ったら、髪を洗おうと思っているお客さんまで『気味が悪い』『汚い』と言って飛び出して行くから、あんたにはうちの風呂は遠慮してもらいたい」と言われました。その時こそは本当に心からの涙が出て、当分はそれが神経になり、夜も寝られない日が続きました。それほど自分の体が汚くなったかと思うと、その後、その風呂屋へはいっぺんも行ったことがありません。