巖さんは当時すでに拘禁反応(精神状態の悪化)が酷いことから、家族すら会えず、姉の秀子さんも3~4年に1度、しかも10分程度、国会議員への働きかけなどからようやく会える状態が続いていた。死刑囚の情報は厳しく制限されているため、獄中からの手紙を読み進め、その中に出てくる名前の人を探し、取材し、証言を集めてたどる番組「宣告の果て~確定死刑囚・袴田巖の38年〜」(2004年静岡放送)を制作。これが日本民間放送連盟賞報道番組部門最優秀賞を受賞する。しかし、それでも笠井監督の興味は尽きず、秀子さんのもとに通い、カメラを回し続けるうち、2014年に東京拘置所に入っていた巖さんが釈放されることに。
「生きては会えないかと思った巖さんが目の前に現れた」
「会いたくて会いたくて、ずっと考え続けてきた人が釈放され、目の前にいるとなって、そこからできる限り足を運んで、記録し続けようと思いました。もちろん無罪であってほしい、疑いを晴らしたいとは願い続けていましたが、私の取材のモチベーションはそれとは違う。無罪が認められなかったとしても、たとえ万が一、獄中で亡くなってしまい、ご遺体などの形で初めて面会する日が来たとしても、お会いできるまで注目し続けようと決めて取材していたので、一転、無罪の流れになったのは思ってもみないことでした。私が取材を続けたのは、秀子さんが弟さんを誰が何と言っても信じ抜く気持ちに打たれたことが大きいと思います」
この映画のもう一人の主役と言えるのが、巖さんを信じ続け、支え続けた姉の秀子さん、91歳だ。
袴田家の6人きょうだいの5番目が秀子さん、巖さんは末っ子。当初は母親が巖さんを支えており、そんな母親に巖さんは手紙を獄中から書き、母親のために自分の冤罪を晴らして戻るという目標を掲げていた。
秀子さんは経理のスキルを身につけ、住み込みで働いた
しかし、もともと健康だった母親が体を壊し、静岡地裁で最初の死刑判決が出てすぐに、巖さんの身を案じつつ亡くなってしまう。そこから長男が中心となり、きょうだい一丸となって支援をしていたが、病気や加齢で徐々に秀子さん中心にシフト。特に秀子さんと巖さんは末っ子とすぐ上の姉でずっと一緒にいたこと、母親の悲しみや無念の最期を間近で秀子さんが看取ったこともあり、母親の思いに報いる意味で受け継いでいく。