58年前、静岡県で一家4人が殺害された「袴田事件」で死刑が確定した袴田巌さんの再審(やり直しの裁判)で、9月26日午後、静岡地方裁判所は無罪を言い渡した。

 姉・ひで子さんの献身、死刑判決を書いた元裁判官の告白と謝罪など、袴田さんが確定死刑囚のまま釈放された2014年以降を密着取材。袴田さん自身は、“拘禁反応”とみられる症状が残る中で何を語ってきたのか。『袴田事件 神になるしかなかった男の58年』(青柳雄介著、文春新書)よりプロローグを掲載する。

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 拘留生活という大きな犠牲の上で、私は何を得ようとしているか。私は今、人間としてすべての欲望を抑え、そして代わりにそれとは比べものにならない程の大きな満足感を得ようとしているのだ。(中略)

 さて、私も冤罪ながら死刑囚。全身にしみわたって来る悲しみにたえつつ、生きなければならない。そして死刑執行という未知のものに対するはてしない恐怖が、私の心をたとえようもなく冷たくする時がある。そして全身が冬の木枯におそわれたように、身をふるわせるのである。自分の五感さえ信じられないほどの恐ろしい瞬間があるのだ。しかし、私は勝つのだ。私は、今日、自分の生活に対する決意と行為が、一つなりとも卵を持って石に投げつけるに等しい無謀なものだとは思わない。

(一九七三年一月二六日、袴田巖から兄・茂治あて書簡より)

事件から50年目の散歩

 半世紀のうちに、世相は変わった。

 二〇一六年六月三〇日、午前九時すぎ。静岡県浜松市の繁華街を、老齢の男性がゆっくりと歩みを進めていく。このとき八〇歳になっていた袴田巖である。梅雨の合い間の強い日差しが、グレーのハットとシャツに降り注ぐ。気温は連日上昇を続け、この日の昼前には三〇度を超えた。額には玉のような汗が浮かんでいるが、袴田は構わず歩き続ける。

 やや前傾姿勢を保ち、表情をほとんど変えない。首を下に傾け、まるで自分の足がしっかりと前へと進んでいるか確かめようと、靴の先を見つめているような姿勢だ。パン屋やドラッグストア、うなぎ屋やラーメン屋、喫茶店、居酒屋、パチンコ屋やゲームセンターなどの軒先をかすめながら、時おり前方や横に視線を向けるが、ほぼ下を向いたまま、初夏の強い日差しを受けながら五時間以上歩き続けた。途中で何度か立ち止まっては、人差し指と親指で作った輪やⅤサインを独特なポーズで虚空に向けて差し出す。「宇宙の彼方にいる神と交信する儀式」なのだという。袴田にとって神聖な儀式であることは表情や姿勢から間違いない。この時期、毎日のようにこうして浜松の街を歩いていた。

袴田巌さん ©時事通信社

 梅雨の時期になってもそれは変わらない。大粒の汗を流し八時間ほど歩くこともあった。当時の私の取材ノートには、

「きょう街を歩いた」

「きょうも歩いた」

「また一日中街を歩いた」

 という内容ばかりが続く。雨が降っても長時間歩いた。

 浜松の街ではすでに袴田のことを知る人が多い。何人かが袴田に気づき、「よかったね」「応援してるよ、袴田さん」などと声をかける。その多くは袴田が無罪放免になって街を散歩していると思っている。だが、片手を上げて応えるその男が今もなお「確定死刑囚」の立場のままであり、また彼にとってこの日が特別な日であることを知る人は少ない。あたり前の日常の中にある普通の現実と、虚構の世界に閉じ込められたままの日常が静かに交錯する。確定死刑囚が人混みをすり抜けていく。

 ちょうど五〇年前のこの日、一九六六年六月三〇日。

 東京ではザ・ビートルズの初来日公演が行われた。日本武道館に熱狂的な拍手と歓声がこだましたこの日の未明、遠く離れた静岡県清水市(現在の静岡市清水区)にあった味噌製造会社の専務宅が放火され、焼け跡から一家四人の惨殺遺体が発見された。四人の遺体には合計四〇カ所以上の刺し傷が残されていた。強盗殺人と放火などの容疑で逮捕されたのは当時三〇歳の同社従業員、元プロボクサーの袴田巖だった。だが、袴田に結びつく直接証拠は何もなく、取調べから公判までほぼ一貫して容疑を否認したものの、一審で極刑が言い渡され、控訴と上告も棄却。逮捕から一四年後の一九八〇年に死刑が確定した。