吉三郎は奥宮には50円(約18万円)しか渡さず、奥宮は事件で起訴されて死刑に。彼が警察・検察のスパイだったのかどうかはいまも残る謎だ。橋川文三編著『日本の百年4 明治の栄光』(1978年)はこう書く。
結果として彼(奥宮)は怪人飯野に翻弄され、金は取れず、情報は全て飯野―有松の線から山県のもとにつつぬけになったことは間違いない。
幸徳も吉三郎と会ったことがあった。吉三郎の供述と神崎清『革命伝説 爆裂弾の巻』(1960年)では経緯と会話の内容が全く違うが、吉三郎が幸徳を懐柔しようとしてやんわり断られた代わりに金=吉三郎によれば20円(約7万円)=を渡したのは確かなようだ。
豪華絢爛、穏田の吉三郎御殿
この間、吉三郎は熱心な支持者の元陸軍主計総監・外松孫太郎男爵から東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村穏田の邸宅を譲られた(「買い取った」という資料も)。敷地3000坪(約1万平方メートル)、家屋は総ヒノキ造り300坪(約1000平方メートル)といわれる。
穏田は現渋谷区神宮前5丁目。表参道と明治通りに挟まれた、いまや最先端の街だが、元々は伊賀衆が徳川家康から与えられた土地だった。『東京名所図会 西部之部』(1969年)によれば、名前通り、もとは田んぼで、ドジョウ、小魚などをすくいに「穏田田んぼに遊びに行こう」と言い、セリ、嫁菜、タンポポなども採ったという。雑誌「人の噂」1931(昭和6)年5月号にはその「吉三郎御殿」の訪問記が載っている。
取り次ぎの見目麗しい端麗な婦人が現れ案内された玄関の右手の神殿に通じる小門には「唯神」の額。チリ一つなく掃き清められた庭を飛び石伝いに神殿を経て迂回百数十歩。奥まった座敷に通される。12畳の一室。周囲にしめ縄をめぐらし、床の間には古びた山水の軸、老松に草花を配した大花瓶、一段下ってめぐらした6曲の金屏風には墨痕鮮やかな裸馬の一群が躍っている。
中華民国の孫文*氏から贈られた「博愛」の大きな額、清浦(奎吾)子爵(元首相)の書額、正面上座には明治大帝の尊影を奉安し、左手奥の間には明治神宮をまつり、くさぐさの供物が隠れ見える。(吉三郎は)白綸子(絹織物の一種)の二枚重ねに黒紋付の二重の羽織、袴のひもの辺りには青色の古びた直径1寸(約3センチ)ぐらいの宝玉を紫のひもで短刀のつかにぶら下げ、ドッシリと相対する……。
*孫文=「中国革命の父」とよばれた中国、清末・民国初期の政治家



