吉三郎は自宅に近い旭貯金銀行に1914年夏ごろ、5万円の定期預金をした。そのころ、同銀行の経営は危うくなっていたが、支配人(営業主任という表記も)は同年11月、5万円返済の金融のためとして新たに1万円の借用を申し入れ、吉三郎は応じた。ところが、直後に取り付け騒ぎが始まり、吉三郎は書生に支配人を連れてこさせ、担保を入れるように求めたが、法を盾に断られた。
「飯野吉三郎の眼中には法律などない」
そこで吉三郎は「よくもこの飯野をあざむいたな」「貴様のような者は生かしておくわけにはいかない」「貴様は法律と言うが、飯野吉三郎の眼中には法律などない。司法省でも警視庁でも自分の意見通り、どうにでもなる」と怒鳴り、建物と約束手形を担保に取った。その場には、休職中の警部を制服姿で立ち会わせて威圧したという。
公判で問われると、吉三郎は裁判長の前に出て「自分がそのような放言をすると考えるのは言語道断」と息巻いた。涙を流しながら「断じてそんなことはない」と叫んで、裁判長に「冷静に」と注意された。以後の法廷には「病気」として医師を付き添わせ、頭に氷嚢を当てるなどした。
人権派弁護士として知られた弁護人の花井卓蔵は、権利の実行に不穏な行動があったとしても刑法上、罪となるべきものではないと「自力救済権」を主張。同年8月13日の判決では証拠不十分として3人とも無罪とされた。
「法律新聞」1915年8月15日号は「さすがの司法権も神様までには及ばなかったものとみえる」と茶化した一方、「飯野という人間が、神様か怪物か訳の分からぬ疑問の人間にされて、普通の人間なら何でもない事件が大事件のように取り沙汰されている」と評した。
政変、組閣、疑獄などことあるごとに…
その後も、吉三郎の名はことあるごとに新聞に登場した。政変や組閣の場、そして疑獄や「カネ」をめぐる問題で。
▼前樺太(現サハリン)庁長官の横領事件で、同庁管理資金から2万円が軌道払い下げの運動に努力してくれたとして吉三郎に与えられた=1916(大正5)年2月2日付東朝
▼寺内正毅内閣成立直前、寺内邸前で夜「悠々と馬車を駆って訪問するのを何者と見れば、これはまた意外千万な穏田の行者こと飯野吉三郎氏である」=同年10月6日付東朝
▼日本初の「平民宰相」となった原敬(のち暗殺)の内閣発足直前、山県有朋邸や原敬邸に姿を見せ、内閣の見通しを述べた=1919(大正8)年9月26日付東朝
▼上京中の地方長官を招待して「思想統一を図る」講演。内務省警保局長、内閣書記官長も出席した=1921(大正10)年5月12日付東朝
▼東京市疑獄で実業家が予審判事に「飯野吉三郎に『樺太の石炭鉱夫に衣類を送る金を貸せ』と頼まれ、1万円貸した。飯野は後藤新平と懇意なので、飯野から後藤に、検挙をある程度までで止めてほしいと伝えてもらいたいと頼んだ」と供述した=同年8月10日付東朝
▼横浜市の高等商業学校敷地問題で、敷地買収と報償契約が結ばれていたことが分かり、飯野吉三郎が渦中の人物とみなされている=1923(大正12)年5月26日付東朝
そんな中、報知新聞の1925(大正14)年1月9日発行10日付夕刊は「大晦日の怪事件で 穏田の神様事飯野吉三郎告訴さる」という記事を1面トップで掲載。報知の“吉三郎攻撃キャンペーン”の始まりだった。




