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「どうせ死ぬんやったら、これを1回、自分で作ってから死んだらええ!」

その日、無鉄砲の大将、赤迫重之さんが不在だったため、自宅に戻った髙田さんは、便せん3枚にわたって手紙をしたためた。

「自分がどれぐらい無鉄砲のラーメンを食べてきたか、なぜこれだけ無鉄砲が好きなのか、過去にどんなとんこつラーメン食べたのか、僕が入ったらどんな仕事をしたいのか、思いのたけを書きました」

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3日後、大将から「今すぐうちに来なさい」と電話がかかってきた。京都の郊外にある邸宅で、大将、女将さんと向き合った。そこで、髙田さんは無鉄砲への思いを訴えた。この時、40歳。髙田さんと同じ年の大将はなにを思っただろう。30分ほどの面接を終えた時、「明日から来なさい」と言われて、髙田さんは、ホッと胸をなでおろした。

洗い場から抜け出すために

2009年6月、髙田さんが「地獄」と振り返るラーメン修業が幕を開ける。

時給850円のアルバイトとして入店したのは、奈良の大和郡山駅から徒歩40分ほどの場所にある無鉄砲の支店「豚の骨」。当時、髙田さんが住んでいた大阪市福島区の自宅から片道2時間以上をかけての通勤が始まった。

最初の仕事は、食器洗い。厨房の奥の狭い場所で食洗器の熱気がこもり、エアコンがまったく効かない。湿度90%の熱帯にいるような環境で9時から22時45分まで働き、終電で帰った。2日目には、「もう無理やわ……」と音を上げそうになった。

無鉄砲でスープに触れることが許されるのは、店長のみ。当時、無鉄砲には腕に覚えのある若い店長候補が10人ほど働いていた。40歳のアルバイトがラーメンを作れるようになるには、できる限り早く彼らのレベルに達しなくてはならない。

ではどうするか? 洗い場から早く抜け出したい一心で、髙田さんは全力でアピールを始めた。洗い物を頑張るというレベルではない。休憩に行ってと言われても、「必要ないです」と頑としていかない。それじゃあ会社が困ると怒られると、外に出て、スープを作る大将が厨房の窓から見える位置で腕立て伏せ。