〈1910(明治43)年9月、新潟県に生まれ、群馬県・伊勢崎で育ち、前橋の旧制県立高等女学校を卒業した。21歳で伊勢崎市の吉田印刷経営、吉田庄藏と結婚。2男1女をもうけた。婦選獲得同盟の支部役員を務めるなど、戦前の彼女についてはいい評判ばかりだが、1941~1942年ごろ、3児を引き取って別居。紙を大量に買い占めて大蔵省や安田銀行(現みずほ銀行)などの印刷を一手に引き受け、戦後の紙不足時代にも大量のストックを持っていたため、相当の資産をつくったらしい。
1946年春ごろ、夫とともに「吉田書店」をつくり、「潮流」と「女性線」という2つの雑誌を発行した。「女性線」は神近市子、佐多稲子らの原稿を載せ、ミノブも「藤村玲子」のペンネームで編集後記を執筆。1946年3月の創刊号では「戦争の嵐は去った。世紀の嵐である。冷厳なる現実と幾多の悲しみと感慨とを残して――」「新しきものの胎動という範疇から離脱して、今こそ全ての現象は偉大なる前進を展開しようとしている」と謳い上げた〉
熱心な左翼女性だった
最近、研究が進んでいる「伊勢崎署占拠(占領)事件」という戦前の出来事がある。菊池邦作「群馬県社会運動の歩み(下)―大正・昭和時代―」=「労働運動史研究19」(1960年)所収=によると、1931(昭和6)年9月6日、群馬県伊勢崎町(現伊勢崎市)の左翼系文化団体が作家の小林多喜二、中野重治らを招いて文芸講演会を開催しようとしたところ、開会前の昼食会を無届け集会とされ、小林ら講師と、吉田庄藏を除く主催者側中心メンバーが伊勢崎署に拘留されてしまった。
知らせを受けて群馬県内の無産運動の活動家らが集まり、講演会に詰めかけた聴衆と合わせて約500人が伊勢崎署を取り囲んで署員と乱闘。署長や署員が退去した後の署を占拠した。交渉の結果、拘留者は全員釈放されたが、県内の活動家への「重要な電話連絡の任務を果たした人が誰あろう、いま千葉銀行事件で名を売っている『レインボー』社長・坂内ミノブ(当時吉田夫人)その人の、若い時代の純粋な姿である」(同論文)。
「彼女は以前、私が前橋で若い女性グループに『共産党宣言』の講義をしていた時のキャップ(リーダー)で、非常に優秀な女性であった」とも同論文は述べる。当時は熱心な左翼女性だったわけだ。
婦選獲得同盟は「女性にも選挙権を」と市川房枝(戦後参議院議員)らが中心になって1924(大正13)年に「婦人参政権獲得期成同盟会」として設立。翌年「婦選獲得同盟」に改称したが、戦時色が強くなる中、徐々に体制に協力していく。
自分を「哲学少女」と称し、雑誌の編集に携わる
〈「女性線」では翌1947年の第4号から、夫庄藏に代わって「吉田みのぶ」として編集兼発行人に。「文学少女」と呼ばれたが、自分では「哲学少女」と言っていた。女子大卒の編集部員や神近の娘らを社員として高給を与え、一流文化人と交際。理想的な評論誌を目指した。
1948年10月には銀座のど真ん中に7つの事業を七色の虹になぞらえて「KKレインボー」を設立。洋品、装身具、美術品を扱い、グリル(レストラン)も経営する女社長に納まった。どうやらこのころを契機に、彼女の生活と意見は一変して“神秘的”になってしまったようだ。「女性線」の原稿料支払いが滞り、スタッフへの給料支払いが遅れ始めた1949年ごろから、めったに他人に会いたがらなくなり、社員でも彼女に面会できなくなった。金繰りの秘密があるのか、実態を探られたくなかったのか……〉