「汚い」とか言っている余裕はなかった

 階段に座り込んだ僕は、まだその辺りにM氏がいるような気がしたので、

「Mさ~ん!」

 と呼ぶと、やはりすぐ近くにいた。

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 彼は心配して、物かげに隠れて様子を見ていたのだ。

 事情を話しているうちに座っていることさえつらくなってきた。

 間違いなく貧血の症状だ。

 あまり褒められたことではないが、僕は階段に横になった。

「汚い」とかそんなことを言っている余裕はなかった。その時の僕には、そうする以外にできることがなかったのだ。

自宅マンションの階段に倒れ込んだ筆者。「Mさん、写真撮って」と撮影を指示した ©文藝春秋

 階段はまだ5~6段しか上がっていない。3階まで上がるには31段もあるのだ。ゴールは果てしなく遠い。

 M氏はB藝春秋の中でも一二を争う「やさしい男」だが、一方で一二を争う「やさ男」でもある。

 激ヤセ中とはいえ僕をかついで3階まで上るのは不可能だ。

 そんなことを考えている最中も、意識は次第に遠のいていくような気がする。

「救急要請か……」

 もはや最後の手段だが、動けないのだからやむを得ない。

 ただ、救急隊を呼ぶ前に、できることもあるはずだ。

横になっている間、幸運にもこの階段を利用する住人はいなかった ©文藝春秋

「先に受け入れ病院を探そう! そうすれば救急隊の手間も省ける。いや、受け入れ先さえ決まれば救急車を呼ばなくてもタクシーで行けるじゃないか!」

 遠のく意識のなか、そんな子供でも思いつくようなことを考え、僕はM氏に「ある病院」に電話をかけてもらった。

 その病院とは、以前アニサキスにかかったときに、やはりタクシーで救急外来を受診し、2泊入院して1匹のアニサキスを摘出してもらった病院だ。

 もっと言えば、離婚した元妻が看護師として勤めていた病院でもある。

 わが家のあたりで「救急」というと、最初に名前が挙がる病院なのだ。

 M氏に電話をしてもらい、事情を伝えると、かなりの長時間待たされた末に、

「今日は受け入れられない」

 との回答だった。

 連休中で医師もいないのだろう。仕方がない。

 じつはこの電話のやり取りに20分近くを要したのだが、その間に一度は遠のいて行った意識が、また近づいてきたのだ。

 このチャンスを逃す手はない。

※長田昭二氏の本記事全文(7500字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています。全文では、新宿・伊勢丹で起きたトラブル、胃カメラ検査直前の体調の急変、化学療法から在宅医療へのシフト、人気声優との邂逅などについて語られています。

■連載「僕の前立腺がんレポート
第1回 医療ジャーナリストのがん闘病記
第2回 がん転移を告知されて一番大変なのは「誰に伝え、誰に隠すか」だった
第3回 抗がん剤を「休薬」したら筆者の身体に何が起きたか?
第4回 “がん抑制遺伝子”が欠損したレアケースと判明…治験を受け入れるべきなのか
第5回 抗がん剤は「演奏会が終るまで待って」骨に多発転移しても担当医に懇願した理由
第6回 ホルモン治療の副作用で変化した「腋毛・乳房・陰部」のリアル
第7回 いよいよ始まった抗がん剤治療の「想定外の驚き
第8回 痛くも熱くもない放射線治療のリアル
第9回 手術、抗がん剤、放射線治療で年間医療費114万2725円!
第10回 「薬が効かなくなってきたようです」その結果は僕を想像以上に落胆させた
第11回 抗がん剤で失っていく“顔の毛”をどう補うか
第12回 「僕にとって最後の薬」抗がん剤カバジタキセルが品不足!
第13回 がん患者の“だるさ”は、なぜ他人に伝わらないか?
第14回 がん細胞を“敵”として駆逐するか、“共存”を目指すべきか?
第15回 「在宅緩和ケア」取材で“深く安堵”した理由
第16回 めまい発作中も「余命半年でやりたいこと」をリストアップしたら楽しくなった
第17回 「ただのかぜ」と戦う体力が残っていない僕は「遺言」の準備をはじめた
第18回 「余命半年」の宣告を受けた日、不思議なくらい精神状態は落ち着いていた
第19回 余命宣告後に振り込まれた大金900万…生前給付金「リビングニーズ」とは何か?
第20回 息切れで呼吸困難になりかける急峻な斜面に、僕の入る「文學者の墓」はあった
第21回 がん細胞は正月も手を緩めず、腫瘍マーカーは上昇し続けた
第22回 
主治医が勧める骨転移治療“ラジウム223”は断ることにした
第23回 在宅診療してくれる「第二の主治医」を考えるときが来た
第24回 「体調不良でなかなかパソコンに向かえない」“余命半年”を使い切った僕は、足の痛みで杖が必要になった
第25回 今回はこちら

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