8ミリ映画出身の監督・小中和哉氏が、いま日本映画界を支える監督たちに自主映画時代について聞く好評インタビューシリーズ。最終回は小中監督自身の自主映画時代を語ってもらった。聞き手は、やはり当時の自主制作映画事情を知る明子夫人。(全4回の2回目/3回目に続く)

小中和哉監督(左)と小中明子氏 撮影:藍河兼一

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『ジョーズ』に刺激を受けて作った初監督作品『CLAWS』

明子 初監督作品『CLAWS』(1976)の製作の経緯を教えてください。

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和哉 その前に兄貴が監督で『インベーダー』(1975)を作ったわけですが、そろそろ自分も監督をやりたいと思って、クラスの友達に「日曜日、みんなで高尾山に行って映画撮ろう」と声をかけて、ほぼ1日で撮りました。

『CLAWS』

明子 第1作もやっぱりクマだったんですね。

和哉 『ジョーズ』(1975)が流行って、「人食いサメの映画が来るなら人食い熊の映画もいけるぞ」という発想で。

明子 音楽を学校の先生が作られたんですね。

和哉 僕らが映画を作ると聞いて担任の丸山嘉夫先生が、「じゃあ、俺が音楽やってやるよ」と曲を提供してくれた。

明子 前衛的な即興曲というか素敵なピアノ曲で、映像とのギャップが面白かったです。完成してみてどうでしたか?

和哉 真面目に怖い映画を作ろうとしたんだけど、頭を潰される場面のダミーヘッドがハリボテだったり、崖から落ちていくクマと少年が紙粘土で作った人形のコマ撮りだったりして、上映したら大爆笑でした。自分のイメージと観客の受け取り方のギャップみたいなものに気付いた最初の作品でしたね。

『CLAWS』

明子 私はちょっと怖かったですが。次が中3の時に作った『THE ADVENTURE OF TARO』(1977)というアニメ。面白かったです。

和哉 3本オムニバスで、切り紙アニメ、ペーパーアニメ、人形アニメと3つの違う技法で作った。人形アニメが一番大変だったかな。ベッドの上にセットを作って、針金で関節が動く恐竜の人形を作ってコマ撮りして、部屋がどんどん汚くなった。

明子 どうしてアニメーションを作ろうと思ったんですか?

和哉 アニメって本当に作れるのかなという実験かな。それぞれ違う技法を試してみたくて。ある程度本とかで知識はあったけど、本当に動いて見えるのかなという。

明子 中3であんな作品を撮れるのはすごいなと思いました。

和哉 動いただけで喜んでたレベルでしたけど。