本局は開始1時間30分で終盤戦になり、それが延々と続いた。ここまで控室で検討した内容は、私が現地で観戦した中でも1、2を争う膨大な量だった。対局者はそれを脳内だけでずっと読み続けたことになる。フルマラソンで長いデッドヒート、2人同時にゴールしたと思ったら、そこからまた障害物レースが始まったようなものだ。しかも秒読み付きで。それでも戦い続けなければいけない。ここからは手の善悪を超えた死闘だ。

 伊藤が自玉の隣に竜を引きつける。しかも急所の馬取りだ。もう伊藤玉は寄らなくなった。藤井は58秒まで読まれて桂の犠打。そして続けて銀の犠打。打った銀が曲がっているが、直す余裕もない。「なりふりかまわず」という形容詞がとっさに浮かんだが、藤井将棋でこの言葉を使うのは初めてだ。

 

先に力が尽きたのは、藤井だった

 双方の玉が近く、密集地帯に大駒4枚が入り混じり、利きを確認するだけで大変で、検討も混乱している。藤井さん、桂を歩の上に打ったよ。え、次は銀をタダのところに打ったの。あ、伊藤さんが9まで秒を読まれて銀の利きに馬が入ったよ。一手ごとに驚いて、棋士が皆「観る将」になっている。

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 両者、脳力も体力も限界の中、闇試合の中の殴り合い。そして先に力が尽きたのは、藤井だった。

 105手目の▲3六歩が敗着になった。伊藤は金2枚をはぎ取り、△3六飛が鮮やかな決め手。藤井ががっくりとうなだれる。膝を手で叩き、全身で自分への怒りを表現している。

 皆がとうとう終わったという顔になる。着替えるタイミングに悩み、早めにスーツから和服になっていた谷川は時計を見た。

「やっぱり遅くなるんですね」

 村山もここで手数が110手なのを知って驚く。

 

「時間も時間ですし、内容が濃密なので、もっと手数がかかっているかと思っていました」

 116手目、△3七馬を見た藤井は、天を仰ぎ、下を向いてうなだれ、そして投了を告げた。終局時刻は20時48分。