記者はこう書いたが、事件が人々に衝撃を与えた理由の1つは、この時に見せたOの“変身”ぶりだったのではないだろうか。それまで何回も紙面で見た銀行の制服の“無味乾燥”さから一変した生々しい姿。巨額の横領金のほぼ全てを男に貢いだ挙げ句、逃亡生活を続け、世の中に何の希望も生きがいも見いだせない状態にいると思われたのに、実際は身なりを替え、花を生けてつつましく平凡に生きていた。

逮捕された時のOの“変身”ぶりが話題に(東京読売新聞)

 それまでとは全く違った、女性らしい穏やかな生活。確かに年甲斐もなく、うらぶれてもいたかもしれないが、それもまた1つの人生だっただろう。長続きしないことは分かっていた。京都の1面の記事では「新聞を買いに出るのも怖く、逃走後はアパートに閉じこもっていた」と話している。

「ハイミスの犯罪」と言われて

 同じ日付の東京読売新聞(以下、東京読売)は第2社会面で「ハイミス 女心のスキ間風」というサイド記事を掲載。その中でОの経歴を要旨、次のように書いている。

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〈Oは滋賀県土山町(現甲賀市)の名家に生まれ、良家の子女らしい、厳しいしつけの中で育てられた。しかし、戦後間もなく、父は愛人をつくって家出。両親は離婚し、母子3人は現在の家へ移り住んだ。Oは京都の名門高等女学校に進学したが、3年生だった23(1948)年、学制改革で男女共学に。Oは「男の子と一緒は嫌」と言って退学してしまった*〉
*別の資料では、母親が退学させたことになっている

〈その年の暮れ、滋賀銀行京都支店に就職。お茶くみ、掃除など、よく気がつくうえ、計算事務もそつなくこなし、かわいい少女行員として重宝がられた。今年2月までに5つの支店に勤務。入行6年目の28年、北野支店(当時)では“定期預金の神様”と呼ばれ、40年に山科支店に移った時は、女性行員ではただ1人の事務決裁者の地位に就き、定期預金を一手に引き受けていた。当時の支店長は「預金事務能力は抜群で、後輩の指導ができる人」と高く評価している。だが、そのポストでのその評価がOの犯行を自由にさせる引き金となった〉

〈朝7時半出勤、夕方6時にはまっすぐ帰宅するという毎日の繰り返し。姉と2人の収入で母子3人のつつましい生活を続けているうち、混沌とした戦後の青春期を過ごし、やっと落ち着いた時は、既に姉妹は婚期を逸していた。そんなOの生活に乱れが生じたのは40年夏ごろ、Y運転手のタクシーに乗り合わせた時から。O34歳、Y25歳だった〉