いろいろな「空虚」を僕は描いてきた
“無感覚の美学”、“美しい無感覚”、“無感覚の感覚”といったぐあいに、『いくつもの鋭い破片』では“無感覚”という言葉が重要な意味を持っている。主人公ブレットが自作『レス・ザン・ゼロ』に封じ込めようとしているものでもあるし、彼の親友であるスーザンが体現しているものでもあって、そこでは“無感覚”が、“しあわせ”や“自由”と一体化したものとして語られたりもする。
BEE スーザンというキャラクターは文学的な装置だから、あの当時のバックリー校にああいう子が実在したということではないよ。“無感覚の感覚”と言うと矛盾しているようだけど、“無感覚”もまたひとつの感覚ではあるんだよね。だから、作中に出てくる〈キッズ・イン・アメリカ〉のキム・ワイルドは“無感覚の美学”で輝いていた。付け加えておくと、実際の僕は作中のブレットよりももう少し陽気なところのある人間だった。もちろん小説を書くような人間だからほかのクラスメイトとのあいだに距離があったことはあったんだけど、基本的にはパーティーが好きだったし(笑)。
“無感覚”にもつながる概念として、エリス作品ではしばしば“空っぽ”であることや、“なにもない”ということが描かれる。今回の作品でも、主人公の家は常に“あの空っぽの家”だ。“なにか重要なものの欠落”こそ、エリス作品の一貫したテーマであるようにも感じられる。
BEE そうかもしれないね。とはいえ、“空っぽ”であることにもいろんな種類がある。だから、作品によって異なる“空虚”を描いてきたんだと思う。『アメリカン・サイコ』なら資本主義/消費主義の空虚さを描いているし、『GLAMORAMA』(1998年)ではセレブリティの空虚さを描いている。そういう意味ではたしかに、“空虚感”のようなものを描いてきたとは言えるのかもしれないな。
小説を書くことは道楽なんだ
次の小説では、どんな“空虚”が描かれることになるのだろうか。そしていつわれわれは読めるのだろうか。
BEE どうかな。2010年からの10年間、僕は小説を書いてなかった。ハリウッドで実りはないけど金払いはいいという仕事をしていたからね。それなのにいきなり、2020年にこの小説がやって来た。繰り返しになるけど、小説というのは向こうからやって来るものなんだ。僕はそもそも自分のことを職業小説家だとは思っていないし、僕にとって小説を書くことは道楽なんだ。
ついこのあいだもエージェントから“新作はいつできるんですか?”と訊かれたので、“今のところその予定はない”って答えたら、“だって今はLAに住んでるわけじゃないですか。そこら中でイカレたパーティーが開かれてるでしょう、ひとだってバタバタ死んでるじゃないですか、ネタだらけでしょう!”って言うんだ。でも僕はもうイカレたパーティーなんて行かないんでね(笑)。とはいえ、もしかしたら小説は明日にでもやって来るかもしれない。それだけはなんとも言えない。
今はとにかく、『いくつもの鋭い破片』が日本でも出ることがうれしいし、売れてくれることを切に願っているよ。いや、売れなくてもいいや。出るだけで最高さ(笑)。
