最近は料理番組ばかり見ているよ
エリスはかつて、それぞれの作品にはその時々の自分の痛みや怒りが反映されているという意味のことを語っていた。『いくつもの鋭い破片』からもおなじものは伝わってくる。ということは、今のエリスにはもはや怒りも痛みもないのだろうか、もしかしてしあわせな毎日というやつを送っているとでも言うのだろうか、とよけいな心配が湧いた。
BEE きみはいくつ? 僕はもう62なんだよ。きみもこの齢になればわかると思うけど、もう怒りみたいなもんはないんだよね(笑)。そもそも怒りたくもない。だから最近はテレビのニュースは見ないようにして、料理番組ばかり見てるよ。リラックスするためにね(笑)。
考えてみれば、2001年の911以降、“世界のたがが外れた”という言葉が決まり文句となって久しいわけだが、その“たが”は外れっぱなしなのではなくますます著しく外れ続けているというのは、しかもその状況にわれわれが慣れつつあるというのは、驚くべきことだ。そんな世界で暮らしながら、『レス・ザン・ゼロ』から『インフォーマーズ』(1994年)にいたるまでの初期作品に書き込まれた“無感覚”に触れなおしてみると、切実かつ皮肉な有効性がこれまで以上に高まっているように感じられた。
そんなことを最後に口走ると、「なるほどね。そうなのかもね」とエリスは苦笑交じりに答えて、ミーティング・ルームから退出していった。「実験小説のつもりで書いて初刷5000部だった『アメリカン・サイコ』がここまでになったわけだし、僕にはどんな仕組みでなにが起こってるのかはわからないね。わかったら教えてくれよ」と付け加えながら。
そういえば、90年代末のセレブ風俗を生々しく取り込んだ『GLAMORAMA』もまた、不定形のテロリスト集団と偏在するカメラが物語を牽引するという911以降の世界を予見したような作品だった。25年ほど前に読んで以来だが、今読み返すとどう感じるのだろうか。ちなみに、エリスがいちばん好きなスティーヴン・キング原作映画はブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』で、毎年見直しているそうだ。
ブレット・イーストン・エリス Bret Easton Ellis
1964年、アメリカ生まれ。1985年、『レス・ザン・ゼロ』でデビュー、同作はベストセラーとなり、新たな現代文学の旗手としてセンセーションを巻き起こす。1991年の第3長編『アメリカン・サイコ』は内容の過激さで議論を呼んだ。2023年、『帝国のベッドルーム』(2010年)以来となる長編小説『いくつもの鋭い破片』を発表する。
品川亮(しながわ・りょう)
1970年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。翻訳家、編集者、ライター。主な訳書にヴァネッサ・チャン『わたしたちが起こした嵐』(春秋社)、ウォルター・モズリイ『アントピア』(共和国)、著書に『〈帰国子女〉という日本人』(彩流社)、『366日 映画の名言』(三才ブックス)などがある。