天皇はなぜ「山登り」に惹かれたのか?
小坂部氏の著作からは、人間としての「個」を持つより先に超人的な道徳を求められ続け、帝王の資質を純粋培養された者の寂しげな表情が浮かんでくる。だが、担当記者時代に私が仕事として会い、数少ないながらも話したことのある徳仁皇太子は、豊かな人間味を感じさせる魅力的な人物だった。
個人的な思いになるが、高校生時代からずっと登山を続けてきた私は、皇室の縛られた世界にいながら、やはり登山という行為に心引かれたという徳仁皇太子の内面にとても興味があった。それは興味というより同情に近い好奇心だったかもしれない。
登山というのはきわめて内省的で、基本的に孤独な行為だと思う。誰かと一緒に登る場合でも、ずっと話しているわけではないし、どんなに苦しかろうが、結局最後は自分の足で歩いて帰ってくるしかない。そして、山に入り何日もそこで過ごすという行為には、どこか世の中に背を向けようとする、浮世離れした「世捨て人」の要素が漂う。快適で便利な街の暮らしを捨てる代わりに、人間社会の煩わしさから逃れる。頭上から前方後方、時には足元にまで広がる圧倒的な空の広さの中で、自分が自由であり孤独であることを実感する。
皇長孫や皇太子の立場で同じことを求めたのだとすれば、そこには常人には計り知れないほどの、自由と孤独への渇望があったのではないかと思う。もともとは子どものころ、赤坂御用地の中に古い街道の跡があるのを見つけて、この先には何があるのだろうと、踏み出すことのできない塀の外の世界を思ったのだという。
そのような話を聞いていた私は、もし機会があるなら徳仁皇太子に山への思いを聞いてみたいと思っていた。そして、そのようなことを聞ける機会が巡ってきたので、こう聞いてみた。