「名文だがエロチシズム横溢」

 判決理由書は、一部を取り上げてみても「淫蕩痴戯(いんとうちぎ)の限りを尽くし、互いに陶酔したるか、被告人は吉蔵の右痴戯などに対し、かつて経験したることなき強き愛恋執着を感じ、吉蔵もまた被告人に対する愛欲の絆断ちがたく……」などとなっており、「名文ではあったがエロチシズム横溢(おういつ)。各新聞も取り扱いに困ったというエピソードが残っている」=戸川猪左武『素顔の昭和 戦前』(1981年)。事実、各新聞も掲載せず、代わりに裁判長の「訓戒」を載せた。

「本件が一般社会の注目の焦点となり、かつ喧伝(けんでん)されるゆえんのものは、殺人行為にあらずして、むしろ死体損壊及び、その後の行動の特異性である」と指摘。定が自分の不利益になることも極めて率直かつ積極的に述べたことを評価し、人命尊重や社会的に悪影響を及ぼしたことは重大だが、さまざまな事情を除外して過酷に鞭打つことは当を得ていない、とした。最後に「自省自戒かつ自己の習癖の矯正にさらに一層の努力を」と求めた。

出所後も衰えぬ人気

 法廷での発言通り、定は控訴せず刑が確定。手記によれば、同年12月26日、栃木女囚刑務所に服役。冬は寒さで過酷だったようだが、1940年の「皇紀2600年」の恩赦で減刑され、1941年5月、刑期を終えて出所した。

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 その間も人気は衰えず、刑務所には400件以上の結婚申し込みがあり、出所後は「1万円(現在の約2000万円)でスカウトしたい」と2つのカフェー(クラブ)と1つの映画会社から申し込みがあったといううわさも。

 犯行現場になった待合「まさき」と、定が逮捕まで身を隠していた旅館「品川館」はいまで言う「聖地」となり、客が殺到。「まさき」は2人の写真や部屋着を飾り、品川館は部屋を逮捕時そのままに保存して枕や敷布に「お定の使用した……」という紙切れをぶら下げた。尾久は大正時代にラジウム鉱泉が発見され、路面電車も通って行楽地となり、花柳界があったが、そこで定は“福の神”と呼ばれたという。

事件があった待合「まさき」(『決定版昭和史7』より)

 その後は名前を変えて暮らし、ある男性と同棲。戦中、戦後はひっそりと世に隠れて過ごした。しかし、1947年7月、折からの「カストリ雑誌」ブームに乗って、木村一郎『昭和好色一代女・お定色ざんげ』という本が出版された。

戦後、出版された「お定本」を訴えた(毎日新聞)

「これは単に一編の小説」と「序」にあり、予審調書が基になっているが、阿部定は「ウソだらけの、私を侮辱し、吉蔵をかわいそうなエロ男に書いてあり」(手記)、「とても耐えられない」として著者と出版者を名誉棄損で提訴した。そのことから“正体”が明るみに出て同棲相手に去られた。