事件が印象を残した“2つの理由”

 振り返る時、事件が人々の記憶に深く刻み付けられた理由がいくつかありそうだ。1つは「疾走感」。定の行動は密室では淫靡で猟奇的だが、他の言動は神田生まれのちゃきちゃきの江戸っ子らしく、あっさり、さっぱり、スピーディー。逮捕されても否認したり言いよどんだりせず、全てをぶちまける。裁判でも控訴はしなかった。その潔さが一種の爽快感を生んでいる。性格がルーズでうそつきで浪費癖があるが、損得計算はない。

 1936年5月20日付東朝朝刊は、逃走中の定が2回目に“変装”した古着店の「着物の着こなしが粋で実にうまく、私たちなら小一時間かかるものを5分ぐらいでスルリと着替えました」という談話を載せている。現場の尾久も含め、下町生まれの彼女が動いたのも大半は下町。江戸時代からの情緒は関東大震災で薄れたものの、昭和10年代初頭はぎりぎり残っていた。阿部定が事件で見せたのは一面で「江戸情緒」の残照であり、人々は彼女に懐かしい下町の風情を感じていたのではないか。

戦後の阿部定 ©文藝春秋

二・二六事件の衝撃に比例

 さらに重要な問題がある。阿部定事件は同じ年に起きた二・二六事件と絡めて論じられることが多い。池島新平『雑誌記者』(1958年)は「あの事件があった時は、あたかも二・二六事件の物情騒然たるときで、われわれは毎日暗澹(あんたん)として日本がどうなるかと思っていた。そのときにたまたまこの情痴事件が起こったのであるが、これを追いかけている新聞記者諸君も、われわれ読者も、その間になにかホッとした気持ちがしたのを覚えている」と書いている。

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 当時読売の社会部デスクだった高木健夫がペンネームで書いた小文「暗流を吹き飛ばした女」=『阿部定手記 愛の半生』(1948年)所収=は「恋の絶頂に身もだえする一個の女人が、二・二六のあの暗い、押しつぶされそうな国の気流を、一脈の『何か』をもってさらっと明るく変えた」と回想している。

  一方で、「国民の気分転換のために、この事件はことさら大きく報道されたと思えなくもない」=加太こうじ(「週刊読売」1974年12月7日号)=という見方も。実際、この事件の新聞記事を地域ごとに見ていくと、東京周辺の騒ぎ方が最もひどく、関西から北海道、九州はだいぶ鎮静化して、当時植民地だった朝鮮、台湾、樺太(現サハリン)や満州などは、逮捕時に1回小さな記事が載るだけなど、ぐんとおとなしい。つまり、この事件の過熱報道は、その地域での二・二六事件の衝撃の大きさに比例している。