いまから90年前、1936年5月18日に起きた「阿部定事件」。昭和戦前の事件を眺めて、抜きん出て後世の人々に強烈な印象を残し、伝説化している事件の一つだ。この事件の何が強烈な記憶を人々に刻み込んだのか。長い年月がたったいまも異様な光を放って人々を引き付ける、その正体は何なのか。当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全5回の4回目)

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阿部定の生い立ちは…

 予審調書から阿部定(当時31)の生い立ちを見よう。

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 1905(明治38)年、東京市神田区新銀町(現千代田区神田司町2丁目と神田多町2丁目)の畳職人の家に3男4女の末娘として生まれた。内弟子のほか外からの職人も出入りする裕福な家。兄姉と年が離れていたので両親にかわいがられ、甘やかされて育った。派手好きな母には6歳ぐらいから三味線や踊りを習わされ、職人たちからは「きれいだ」と言われて、気取り屋でわがままな娘になった。

男と遊ぶようになって

 学校は大嫌い。家に大人が多いことから、ませた子どもだった。小学校卒業後、裁縫を習うなどしていたが、15歳のころ、友達の家に遊びに行っているうち、ある大学生と親しくなり、「ふざけているうち、その学生に関係されてしまいました」。阿部定が戦後出版した『阿部定手記―愛の半生』では、誘惑と興味とうぬぼれに負け、「ある青年の誘惑にかかり」「とうとう処女を捧げてしまいました」とある。

「もう嫁には行けない」とやけくそになって、家から金を持ち出しては浅草などの盛り場で遊ぶようになり、複数の男とも関係ができた。女中奉公に出されたが、その家の物を持ち出して警察に連れて行かれた。父が畳屋をやめ、一家は埼玉・坂戸へ。そこでも男と遊んでいたため、父は怒って「そんなに男が好きなら娼妓に売ってしまう」と言い出した。のちに、父は懲らしめるためだったと家族に言ったという。