「婦人公論」1936年7月号には、定の実家の近所に住んでいたという久保久美の「畳屋のお定ちゃん」という手記が載っているが、そこに挙げられた少女時代のエピソードが定の性格を見事に表している。要約すると――。

〈欲しいと思ったものは、誰が何と言おうと手に入れなければ承知しない性質を持っていた。同じ年のうちの娘が持っている小さな博多人形がめっぽう気に入って、遊びに来る早々、つかんでどうしても離さない。娘は泣き出す。お定ちゃんは人形を抱いたまま、白い目をしてものも言わずに突っ立っている。お母さんまで駆け付けてだましたりすかしたりしましたが、どうしてもウンと言わない。お母さんが新品の高い人形を買ってきてやったけれど見向きもせず、結局、娘に新しい人形を持たせて交換した。その強情なことと言ったら……〉

「全国民待望の大公判」に徹夜組も

 1936年11月25日、初公判。同日付東朝朝刊には「霜に結ぶ幻の夢 “お定病”患者群」の見出しの記事が。

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「傍聴券を狙って十数人もの篤志家がこの寒空に徹夜の陣を張った。しかも、お定ならぬ紅一点をさえ交えて……。『近頃では共産党大公判、血盟団、五・一五事件以来のこと。帝人(事件)公判もかないませんね……』と守衛さんも微苦笑」

初公判の報道もすさまじい

 繰り返し行われた共産党弾圧、右翼団体が要人を暗殺した血盟団事件(1932年)、海軍青年将校らが犬養毅首相を暗殺した五・一五事件(同年)、大疑獄事件だったが、全員が無罪になった帝人事件(1934年)といった社会を揺るがす大事件の裁判と並び称されるような騒ぎに。

 25日発行26日付夕刊は各紙、開廷を大々的に報じた。読売の本記リードは「全日本を挙げて猟奇のルツボと化し去った例のお定こと阿部定(32)にかかる殺人、死体損壊事件の第一回公判。女が男を独占する道を妖婦お定が自ら語るのだ」と興奮気味。そして雑観は――。