「明るい気持ちになった」のは本当か?

「時代の清涼剤」「明るい気持ちになった」という証言は多い。それは当時の正直な実感だっただろう。だが、本当にそうか――。

 統計の専門家で貴族院議員も務めた道家斉一郎は『売春婦論考 売笑の沿革と現状』(1928年)で、日本の最近10年間の1年平均売春婦総数を「娼妓」「酌婦」「芸妓」合わせて約17万7000人と算出している。一方、同時期の日本陸軍の兵員は約23万6000人。「時代の気流を変えた阿部定事件」は「その後の農村恐慌の深化を考慮すれば、両者の人数はほぼ拮抗するものになっていたに違いない」と言う。「この二つの数字には、昭和初年のこの国が抱えていた矛盾が集約して示されている」とも。

 あの時代、「苦界」に身を沈めた女性の多くは、凶作で身を売るしかない貧しい農村出身者。そのことに強い危機感を持ったのが二・二六事件の青年将校の決起の動機の1つだった。定と吉蔵の関係は「自由恋愛」で、定が身を売ったのも貧困からではないが、彼女はこの国で戦後まで長く続いた売春=公娼制度の中で生きてきた。その意味で二・二六事件と「阿部定事件」はワンセットだ。

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 1つの矛盾が露呈して戦争の影がちらつき始めた時代、メディアによって過剰に語られた「エログロ趣味をふんだんにまき散らした猟奇事件」に人々が熱狂し、一瞬国家権力から離れた明るい解放感を味わったのは事実かもしれない。しかし、それはもう1つの矛盾の露呈であり、その明るさは太陽の光ではなく、性愛の極致に咲く人工の花の発光だったのではないか。この事件が恥じらいと戸惑いと後ろめたさを与えつつ、人々を妖しい魔力で引き付けるのはそのせいだ。


【参考文献】
▽岩波書店編集部編『近代日本総合年表 第三版』(岩波書店、1968年)
▽細谷啓次郎『どてら裁判』(森脇文庫、1956年)
▽堀ノ内雅一『阿部定正伝』(情報センター出版局、1998年)
▽粟津潔・井伊多郎・穂坂久仁雄『昭和十一年の女 阿部定』(田畑書店、1976年)
▽内村祐之・吉益脩夫他『日本の精神鑑定』(みすず書房、1973年)
▽戸川猪左武『素顔の昭和 戦前』(角川文庫、1981年)

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