収容者たちは⋯

 その言葉に勇気づけられるように、1人、2人と手を挙げ、最終的にはその場にいた全収容者が挙手した。

 こうして岡田更生館の実態は白日のもとに晒され、館長や職員たちが逮捕される。

 事件発覚から1年後の1950年2月28日、岡山地裁で開かれた判決公判では、館長に業務上横領(現在の貨幣価値で約3千600万円の公金を横領)と私文書偽造で懲役1年の実刑、岡田更生館指導員の男に業務上横領と私文書偽造で懲役8ヶ月(執行猶予3年)、会計係に同罪で懲役6ヶ月(執行猶予2年)が言い渡された。

ADVERTISEMENT

 その後、岡田更生館は改組名称変更され岡山県吉備寮となるも、1955年に廃止。

 1956年には更生施設から救護施設に改組されたが、1957年に廃止となり、跡地には民間の病院が一時期開設されたが、これもまた閉鎖。現在、岡田更生館のあった場所には犠牲者を悼む石碑が建てられている。

 また、決死の潜入取材を敢行し福祉施設の実態を暴いた大森は事件から5年後の1954年に海外特派員に赴任し、ワシントン特派員、ニューヨーク支局長、ワシントン支局長を歴任。国際報道畑を歩み、1965年、毎日新聞東京本社外信部長として特派員団を組織・派遣し、ベトナム戦争の現地取材に当たる。このとき、外信部副部長として尽力したのが小西だった。

大森のその後

 1967年、大森は毎日新聞を退社し大森国際研究所を設立、週刊新聞『TOKYO OBSERVER』を創刊して、秘密裏に沖縄へ配備されていた核弾頭搭載の地対地巡航ミサイルの存在をスクープするなどした後、アメリカへ移住。

 多くの著書を上梓し、2010年3月にカリフォルニア州ミッションビエホで亡くなった。享年88だった。

最初から記事を読む 「死亡届の数と骨壺の数が合わない」“路上生活者を救う模範的施設”は嘘だった⋯【バットで入所者を撲殺】“岡山県ブラック施設”の正体(昭和24年の事件)