昨年以来、反政府デモが続く香港は今どうなっているのだろうか。実は香港は「感染症先進地」だった。2003年にSARSを経験した香港政府は感染症予防に敏感で、はやくも防疫レベルを最大に引き上げている。社会は安定している。だがその裏で、中国をめぐる激しい攻防も続いていた──現地の状況をレポートする。
ギリギリの攻防が続く
2月なかば以降、新型コロナウイルスの流行は日本を飲み込み、パニックが広がりつつある。
いっぽう、年間数億人規模の中国人訪問者が訪れる香港は、2月28日現在で93人の感染者を出しつつも、日本とは異なり、感染源を完全に追跡できないような混乱状態には陥っていない。
2003年にSARSの流行を経験した香港政府は感染症予防に敏感で、はやくも1月25日には防疫レベルを最大に引き上げ、幼稚園と小中学校(香港の「中学」は日本の高校も含む)の一斉休校を決めたほか、政府機関職員を中心にリモートワークへの切り替えを進めた。日本で社会問題化しているウイルス検査の制限もなく、無症状の感染者も含めて迅速に検査がなされている。
実際、街を歩くと市民のマスク着用率はほぼ100%で、一時閉店や営業時間短縮をおこなう店舗も多い。ホテルやオフィスビルの入り口ではハンドガン式の体温計で発熱の有無を調べられ、あらゆる飲食店がアルコール消毒液を常備。ラジオDJがマスクを着けっぱなしで喋るなど、社会全体が予防行為に対して寛容な印象だ。
チェックインの際に体温を測定される筆者
香港はウイルス流行が激しい中国広東省と境界を接するにも関わらず、ギリギリの攻防を続けている。“中国発”の疫病に対峙する都市の強さと弱さをレポートしよう。
謎の信仰施設でコロナ蔓延
「昨日、自宅マンション前の路上にパトカーが突然4台も停まって、緊張した面持ちの警官たちが隣の建物内に走り込んでいきました。近所の人に聞いたら、新型コロナウイルスの感染者が出たって言うんです」
2月26日、2歳の女児の母である香港人のニキ(38歳、仮名)はそう話した。接触防止のためチャットソフトを介しての取材だった。
彼女は香港島の下町、北角(ノースポイント)地区の集合住宅で暮らしている。地下鉄駅から徒歩1分の便利な立地だが、建物は築数十年の古い雑居ビルだ。1ヶ月前まで、前の通りでは反政府デモに参加する若者たちが暴れ回り、警官隊の催涙ガスがしばしば路地にたなびいた。
だが、街はここ数日、別の混乱に飲み込まれている。ニキの自宅隣の建物「美輪大厦(メイルン・アパートメント)」に出入りした人から新型コロナウイルスの感染者が続出したのだ。
最初の感染判明は2月19日、1週間ほど前から発熱していた70歳女性だった。彼女は週1回ほどのペースで、美輪大厦の2階に入居する仏教系の民間信仰施設「福慧精舍(フオツワイジンセ)」に通っていた。中国共産党の支配下にある中国本土と異なり、香港では漢民族の伝統的な(“迷信的”な場合もある)民間信仰が数多く残る。福慧精舍もそのひとつだった。
「私は行ったことがありませんでしたが、報道によるとあんなに狭い場所に150人以上の信者が出入りしていたみたいです。同じビル内には老人ホームもあるので心配です」
ニキは言う。香港は住宅事情が厳しく、こうした信仰施設が雑居ビルの1室に入っていることが多い。狭い場所に人が集まり祈りを捧げ、ときには供物(くもつ)の食事を共にする。内部でどんな活動をおこなっているのかがわかりにくい、都市の盲点である。後日の追跡調査を通じて、意外にも信者に富裕層の人々が少なからず含まれていたことも判明した。
やがて、2月上旬までに福慧精舍に参拝した96歳・80歳・76歳・57歳……といった中高年女性たちの感染が続々と明らかになった。香港衛生署が23日におこなった施設内への立ち入り検査では、お経の経本(きようほん)、それを包む袱紗(ふくさ)、信者がひざまずく座布団、さらにトイレの蛇口の取っ手からウイルスが検出され、福慧精舍が“病魔の巣”になっていたことが確認された。
目に見えない恐怖は、さらに信者の家族や親戚にも拡大していく。28日までに香港で確認された93件の新型コロナウイルス感染例のうち、約4分の1は北角地区から広まったものだ。
ある信者の妹(50代)は、美輪大厦から2ブロック先にあるKFC(ケンタツキー・フライドチキン)で揚げ物を担当していたが、やはり感染が確認された。症状は出ていないが、香港KFCは食品をすべて廃棄して店舗も閉鎖するという大胆な対策を取っている。
患者が出た店の周辺には消毒液の臭気が
私が実際に現地へ行ってみたところ、美輪大厦とKFCの当該店舗付近は強烈な消毒薬の臭いで包まれていた。周囲のケーキ屋や喫茶店に客は1人もおらず、ニュースでアウトブレイクを知った通行人たちが付近を足早に通り過ぎていく。ただ、地域住民は北角に住み続けており、美輪大厦の内部に入っていく住民の姿も見られた。
隣国の韓国でも2月20日ごろから感染者数が急増したが、こちらも新宗教団体「新天地イエス教会」で集団感染が拡大したことがきっかけだった。
香港の場合、中国本土と違って社会主義革命や文化大革命を経験しなかったことで、閉鎖的な民間信仰のコミュニティが残っていた。現地ならではの土着的な信仰集団がウイルスの媒介装置になっていたのは、なんとも皮肉な事態だ。
医療ストで境界封鎖を要求
「狭い香港で新型コロナウイルスが蔓延すると、人員不足によって医療業界が麻痺する。感染源(である中国大陸)との接触を断ち切らなくてはいけない。中国との境界の全面封鎖を求めている」
ほぼ無人の空港
そう話したのは香港の医療関係者の労働組合・医管局員工陣線(HAEA)の幹部である30歳のクリス・チュン(張嘉祺)である。HAEAは中国からの旅行客の香港入境禁止や医療関係者の安全確保などの「五大要求」を掲げ、2月3日から香港の医療業界としては異例の5日間連続のストライキに踏み切った。
新型コロナウイルス肺炎(COVID-19)は香港では「武漢肺炎」と通称され、“中国から来た伝染病”という認識が強い。
「武漢肺炎の発生は、本来ならば自然災害だ。だが、ウイルスの感染拡大を適切な方法で食い止められなければ、それは(香港の林鄭月娥政権による)人災になってしまう」
2019年6月以来、香港では逃亡犯条例の改正案をめぐる反対運動を契機とした過激な反政府デモが勃発。若者を中心に香港ナショナリズムや中国に対する自立意識が強まった。半年以上続いたデモは、ウイルス禍によって外出が控えられて沈静化したのが、かわりにデモの思想的な影響を受ける形で、若手社会人による反体制的な労組の結成が進みはじめた。
2019年12月に成立したHAEAは、そうした「デモ系」の労組のひとつだ。香港の医療従事者約8万人のうち、おおむね1万人前後を組織している。ほかにも鉄道関連の新労組「港軼新動力」などが結成されており、こうしたデモ系の労組の多くは、今回のHAEAの医療ストを支持することになった。
「これまで、(香港の抗議者は)デモや集会などさまざまな方法を試したが、納得いく結果を得られなかった。今回のストは政府側との対話はできなかったが、一定の成果を上げた」
クリスがそう話すのは、スト1日目の2月3日、香港政府が中国との出入境地点の多くを封鎖したからだ(数ヶ所の例外あり)。また、5日には中国大陸からの渡航者全員に14日間にわたる隔離措置をおこなうことも発表された。
政府による一連の決定とストとの関連は不明だが、結果的にはHAEAの要望が一部は実現した形である。境界の封鎖は香港人の約8割が賛成、医療ストについても約6割が賛成しており、従来の香港デモの支持層より広い範囲で同意を得られる問題でもあった。
増加する「中国人拒否」の店
医療関連では他の動きも起きている。例えば郊外の屯門では2月23日、現地の仁愛病院が新型コロナウイルス患者の受け入れ施設に指定されたことに反発して、数百人規模の抗議デモが発生した。
実際に当該の仁愛病院へ行ってみると、すぐ近くにショッピングモールや(休校中とはいえ)学校があった。反対の声が出たのはこうした立地ゆえだったようだ。
「新型コロナウイルスは飛沫・接触感染だけだというけれど、まだ性質はわからない。今後に突然変異するかもしれない。生活空間に近い場所を受け入れ施設に指定することに、反対する声が出るのは理解できる」
過去に反政府デモへの参加経験がある23歳の会社員は、屯門の抗議デモについてそう話す。類似の反対運動は香港の各地で起き、ときには警官隊が催涙弾を撃ち込んで鎮圧する局面すらある。
街では他にも「デモ系」の飲食店が、新型コロナウイルスの流行を理由に中国人客の立ち入りを拒否する例が増えている。私自身、この手の中国人ボイコット店舗を、繁華街の旺角だけで4〜5軒は目にした。
過去半年間に極限まで膨らんだ政府への不信感に加えて、“中国から来た伝染病”を受け入れることへの反発が激しい抗議を生んでいる。近年の政治情勢を通じて醸成された反中国感情が、防疫の形で噴出しているわけなのだ。
日本で消えたマスクを転売
――インドネシアは150香港ドル(約2100円)。ベトナムとネパールは220香港ドル(約3100円)で、タイは230香港ドル(約3200円)。いっぽうスペインとアメリカは320香港ドル(約4500円)で、日本はさらに割高……。
これは何の数字かといえば、製造国別のマスク50枚あたりの価格である。
中国のウイルス禍が伝えられた1月下旬以降、日本ではマスクやアルコール消毒液が極端に不足しているが、香港も当初は似た状況に置かれた。2月上旬に中国との境界の大部分が封鎖されて以来、生活物資が入らなくなるというデマが広がり、マスクや消毒液のみならず日用雑貨までも“爆買い”されたからだ。
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source : 文藝春秋 2020年4月号