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阿川佐和子×朝井まかて。介護のコツは「あと何回一緒に笑えるか」

江戸の介護事情を描く『銀の猫』著者とサワコさんが親の介護を語り合う#1

江戸時代の先進性  

朝井  “先進的”と思えることは他にもあって、幕臣は所定の手続きをすれば親の介護のために休みを取ることもできたんです。  

阿川 うちの弟が、「最近は、介護問題が社会的に認知されているから、企業は半日休みを取りやすくなっているんだ」なんて言っていましたが、江戸時代にすでに「介護休暇」があったわけですね。  

朝井 子供が通った手習塾でも、介護の心構えを教えていたんですよ。「老いた親のそばを離れずにつき添い、介助の手を差し伸べること、とくに親が病を得た際は他の仕事をさし措いてでも昼夜寝ずの看病をし、医薬の手を尽くすこと」。  

阿川 凄い! 江戸時代は、子供の頃から親を介護する「覚悟」を養っていたんですね。  

朝井 ですが気持ちだけじゃ続かないのはいつの世も同じで、小説でも採り上げましたが、『養生訓』を始めとする指南書が種々ありました。つまり江戸時代の人々は老い方や介護を受ける側の心構えも、それはよく研究していたんです。  

 しかも当時は意外と合理的な面もあって、親子で契約書を交わした例もあります。我々は隠居するにあたって今後の生活費をこのくらい手許に残し、あとは倅に譲る、その代わり弱ったらちゃんと面倒みてね、と。でも相続した倅がご多分に洩れずのドラで、約束通り面倒を見ずに親に訴えられたりしている(笑)。つまり現代の私たちが想像するほど孝の一点張りじゃなく、ドライな介護もあったんです。時代小説を書いていると、人生で大切な知恵は江戸時代にほとんど出尽くしているんじゃないかと思いますね。  

 そして、老後を生き生きと送っている人を「老い光り」と呼んで尊敬し、目標にしました。いかに往生をするかも模索し続けたし、皆が自宅介護ですから、幼い子らも自ずと病や老い、死を間近で観察することができます。  

阿川 私たちが子供の頃って、老いや死はけっこう身近でしたよね。どこの家にも「ちゅうぶ(震え)」のおじいさんやおばあさんが居て、「じいさんまだ生きているか」なんて近所の人が接してた。それを誰もが目にしていたし、いずれ自分もああなるんだな、と漠然と想像しながら暮らしていました。  

朝井 私たちは、老いて枯れるように逝く人を目の当たりにした、最後の世代なのかもしれませんね。

大往生する江戸の老人。『宝永文正物語』より(国立国会図書館蔵)

阿川 実際に介護をしてみて、小説のように上手くいきましたか。  

朝井 『銀の猫』の連載の最中に夫の母の状態が深刻になり、当人の強い希望もあって、自宅介護に踏み切ったんです。義父母と同居しているのは義妹だったので彼女が介護の主担当、そして私たち夫婦と義弟とでチームを組みました。むろん全員、仕事を持っていますから、訪問看護の看護師さんやお医者さん、ヘルパーさんの力も目一杯お借りしました。寝食、投薬、排泄の世話を家で行なう昔ながらのスタイルなので、よく大変でしょう? と訊かれましたが、我ながらとてもよいチームだったと思います。最期の時も機械音がありませんから、子も孫もベッドの周囲に集まって姑の息遣いにだけ気持ちを向けられましたし、本当に厳かな逝き方でした。そんな体験をしつつの執筆だったので、私の現実と最もリンクした作品になったような気がします。  

 心掛けていたのは、限界点を超えないようにしようということでした。私たち夫婦は長男長女なので、あと三人、親がいます。最初の介護でもう二度とゴメンだ! と思わないように、と。でもいよいよ、誰かが夜もベッドのそばで付き添うべき状態になった時、「じゃあ、〇日は私が」と手を上げたんですが、義妹に丁重に断られました。私がひとたび寝入るとちょっとやそっとでは起きないタチなのを彼女は知っていたので。いや、私の信用のなさたるや(笑)。……阿川さんは実の娘さんである分、やはり介護の中心になられたんでしょうね。  

阿川 そうですね。うちは娘が私ひとりで、あとは男三人の兄弟。誰よりも父自身が「娘のお前に介護をしてもらいたい」と思っていた。男尊女卑のせいだけでなくやはり、いちばんワガママを言いやすい相手だからでしょうね、娘が。

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