1.私は1921年7月11日、オルロフスカヤ・オブラストで、赤軍に奉職していた父と、女医をしていた母との間に生まれた。父方の祖父は富農というだけの理由で土地を没収され、生計を断たれたため、家族に背かれ、1930年の大飢饉の際、餓死してしまった。私は1939年に中学を卒業。モスクワ測地学研究所に入所したが、2か月後に徴兵され1940年、赤軍特務情報部の管理下にあった極東語学研究所軍事部の学生に選抜された。研究所では英語と日本語を勉強させられた。
2.1941年7月の独ソ開戦で研究所は移転。訓練はゲリラ戦に必要な破壊作業と落下傘部隊訓練に変わった。その後、日本人に対する心理戦訓練のため、チタの赤軍特務情報部事務所に、次いで外モンゴルの第7軍地域に派遣され、この時期に特務情報部中尉に任命された。日米開戦後、再び語学研究所付きに。
1943年2月、モスクワの国家保安人民委員部に転任。そこで徹底的な特務情報訓練を仕込まれた。この間の1945年1月に結婚。10月に娘が生まれた。
3.1945年末に特務情報教育を終えて国家保安人民委員部本部に帰され、1946年1月、外務省翻訳官という偽の職名で東京に派遣された。実際は国家保安人民委員部の特務情報部員の仕事だった。
1946年11月、何の理由も告げられず突然モスクワに召喚された。私が国家保安人民委員部に入部した際、父が共産党の党籍を剥奪された事実などを隠していたという疑いで訴追された。やっとのことで疑いは晴れ、前職に復帰できたが、この苦い体験が、前から私の心に宿っていたソビエトの政治体制に対する疑惑を深めたことは事実だ。
「捕虜の中からソ連の手先になる人物を養成する機関に配属された」
亡命の萌芽はこのあたりからだったようだが、まだ紆余曲折があった。
4.1948年1月、私はシベリア抑留中の日本人捕虜の中からソ連の手先になる人物を養成する機関に配属された。大尉に昇進していた。同年8月まで任務を続けた後、モスクワに帰任した。私はもうモスクワでの勤務がイヤになっていたので、もう一度外国勤務を希望。1950年になって日本への再任を上司に推薦してもらうことに成功した。妻と娘を日本に同行したいと切望していたが、許可を求める勇気がなかった。妻は以前、モスクワ在勤のアメリカ軍士官からドライブに誘われて承諾したグループの1人で、そのために他のメンバーとともに徹底的な取り調べを受けただけでなく、5年後に再び調べられたからだ。1950年に来日した時は少佐に昇進。本年1月にソ連陣営を離れた時は中佐だったが、ずっとソ連内務人民委員部の特務情報部員だった。ソ連代表部の名簿には外務省所属の二等書記官と記載されていた。東京で課された特別任務は、アメリカ人の中からソビエト特務情報の手先をつくることだったが、極めて困難だったため、私はもっぱら日本人の手先の操縦に没頭した。