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「ソ連へは絶対帰らないという決意を固めたのはこの時だ」

 ここから、政治亡命を決意し実行する経緯に入る。

 5.ベリヤの突然の粛清のニュースは東京の元ソ連代表部を震動させた。それはソ連政府陣営の大異動と高官の裁判を予測させた。特に私たち内務省出身者グループは、ベリヤの手先だっただけに受けたショックは深刻なものがあった。以前からソビエトを離脱することを考えていたが、私がソ連に帰らないようにしたいと決心したのは1953年7月。ベリヤの粛清事件は、いままで何びとからも挑戦を受けることのなかったような指導的地位の人にも信頼を置くことができないことをはっきり悟らせた。

 6.私は職務怠慢の責めを負わされはしないかと常に恐れていた。というのは、英語は私が最もすらすら話せる外国語であり、日本でアメリカ人の手先をつくる任務を受け持たされていた。私は東京ローン・テニスクラブに入会し、多くのアメリカ人と友達になることには成功した。しかし、その交際をさらに進めてソ連の手先をつくることには全く失敗していたので、この交際がむしろ私に対する疑惑の種となってきた。

 7.1954年1月18日、私は(代表部次席の)ルノフに呼びつけられた。彼は(主席の)パブリチェフがモスクワに、彼か私のどちらかが東京を離れることが必要だと上申したことを告げた。私の行状がパブリチェフの腎臓病を悪化させ、重大な結果を引き起こすかもしれないという説明だった。私は内務省の命令がなければ私を異動させることはできないと突っ張った。パブリチェフの病気は口実だ。私は、すぐ帰国しなければならないとすると、手先の人物への引き継ぐ期間が2日しかないと説明したが、耳を貸してもらえなかった。その時、私の帰国には何か秘密の理由があると直観した。ソ連へは絶対帰らないという決意を固めたのはこの時だ。

「東京が雪に覆われていたあの日に、私は…」

 そして決行の日が来た。

 8.日本人の犠牲でソ連の利益を図る仕事をしていた私が、どうしてこのまま日本にとどまることができようか。私のまず下した結論は、日本で新生活を見いだそうするのは問題外ということだった。アメリカが私の到達すべきゴールでなくてはならないと考えた。当初私は米大使館に行こうかと考えた。が、外部に発表される危険―これはぜひ避けなければならない―を感じてその考えを捨てた。その後数日というものは、ひどい懊悩と非常な緊張の中に過ぎていった。

 ついに1月24日、東京が雪に覆われていたあの日に、私は代表部から抜け出す機会を見いだした。(午後)4時ごろ、こっそり代表部を出て「トルコ風呂」に入り、7時ごろ、「スエヒロ」で夕食を取った。間もなく私は1人のアメリカ人と落ち合うため、打ち合わせの場所へ向かった。会合は予定通り行われた。やがて、われわれは車上の人となり、走り去った。その時初めて私はしみじみと、自由への道を走っていることを実感した。
 

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 生々しいほどの強烈な事件、それを競い合って報道する新聞・雑誌、狂乱していく社会……。大正から昭和に入るころ、犯罪は現代と比べてひとつひとつが強烈な存在感を放っていました。

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小池 新

文藝春秋

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