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連載日の丸女子バレー 東洋の魔女から眞鍋ジャパンまで

2021/12/11

「眞鍋監督は、骨折が分かっても使い続けてくれた」

 しかし竹下は、五輪の試合中に不思議な感覚に出合った、と首を傾げた。

「確かに指1本が使えなければパフォーマンスが落ちるんでしょうけど、とにかくレシーブもトスも正確に、正確にと全神経をかき集めてボールに集中したせいか、指2本でも3本と同じくらいの情報を取ることが出来たんです。新しい能力に出合えたというんですかね。自分でもビックリです。やっぱり、精神は身体をコントロール出来るんだと思いました」

 新たなゾーンに入るまで竹下を追い込んだのは、周りの人々に対する想いだった。

「眞鍋監督は、骨折が分かっても使い続けてくれた。その信頼に応えるためだったら、たとえ試合中に指がすっ飛んでしまったとしても、すぐにつけてもらってコートに立つと決めていたし、コーチ陣のきめ細かな心配りも私を奮い立たせてくれた。そして、鬼のような形相で私の乱れたトスを打ち切ろうとしてくれていた仲間の思いが痛みを忘れさせて、私を新たな世界に導いてくれたんです」

眞鍋正義監督 ©文藝春秋

 その一方で、怪我を隠しての出場は、チーム全体にオリンピックを闘う覚悟を植えつけていた。

 大友が証言する。

「誰もテンさんの怪我を口にすることはなかったけど、うすうす気がついていたんじゃないですかね。コートの外ではみんな穏やかにしていたのに、試合が始まればブオーッと唸りを上げるくらいみんなが高回転していましたから。日の丸を背負うというのはどういうことなのか、テンさんの姿からみんな感じていたと思います」

 余談だが竹下は、オリンピックが終わっても2カ月以上、骨折の事実を口にしなかった。骨折について話せば、メディアに美談として受け止められかねない。みんなで獲ったメダルを、自分ひとりの注目にすり替えられるのを嫌ったからだ。しかし、監督やチームメイトが自分の怪我について質問され、口ごもる様子を見ているうちに、かえって迷惑をかけてしまうと感じ、五輪の熱が冷めた頃を見計らい、ようやく自分の口から公にした。

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