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女性に立ちはだかる壁

おもちゃ 河井案里との対話』(文藝春秋)

 なんでこの人、こんなにズレているのか。

 正義感が強いわりには買収行為にさほど罪悪感を持っていないし、政治家としてやる気があるのかないのかわからない。体裁を重んじるかと思えば検察の前で素っ裸になったり、一貫性がないというよりも、必死で虚勢を張り空回りしている感じだ。

 共感できる部分も多々あった。魑魅魍魎が闊歩する政治の世界で目立つからと持ち上げられて、女だからと落とされる感じ。女はみんなホステスくらいに思っている昭和なオヤジたちの中でもまれてきた経験が私にもある。文学界だって男社会だ。表面的には立ててくれるし、本人たちはセクハラの意識などまったくないが、女であることで生きづらさを感じることは多々あった。

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 河井案里という女性が、大学を卒業してからぶつかった男社会の、「一見ないように見せかけて最後に立ちはだかる壁」みたいなものは、男性と肩を並べて仕事をしようと思った女性なら、程度の差こそあれ感じる壁だと思う。

河井案里氏 ©文藝春秋

 それは学生時代にはよくわからない。

 社会に出て初めて立ち現れてくる。日本社会で仕事をするためには、「自分は差別などしていませんよ」という男性たちと、なんとか折り合いをつけていかなければならない。

なぜ自分のことを「おもちゃ」と表現したのか

 興味深いのは案里氏が、大学時代に教授から受けたセクハラを、卒業してしばらくしてから告発していることだ。

 たぶん「あれはセクハラだった」と、社会に出てからはっきりと気づいたのだと思う。それまでは、自分がハラスメントを受けていたという自覚が薄かったのではないか。

 裕福で高学歴の女性は、本人の意思とは関係なく周りからちやほやされて育つ。その延長線上でハラスメントに対して鷹揚なところがある。自分は差別など経験したことがない、という女子学生は多い。もちろん一生、それを意識しない人もいるだろうが、卒業した途端にジェンダーの問題に直面する。

 政治の世界を、私は知らないが、たぶん案里氏は男社会を思い知ったのだと思う。そこで自分が求められている役割のあまりの矮小さに傷つき、表題の言葉を呟いたのだと思う。

「おもちゃ」と。

 この言葉は、氏が元東京高検検事長の黒川氏の発言を題材に、自分を語った言葉であり、聞くところによれば著者も編集者も「責任転嫁の印象はあるにせよ、このタイトル以外は考えられなかった」そうだ。