「話を聞いている中、第一感は、これは怪しい、という疑問であった」と「柔道をする人間に悪人はおらん」
そして、全貌解明の端緒は「犯人」自身が作った。「警視庁史 大正編」には、この「大正事件史」の「島倉事件」でも大きな役割を果たしたとされる、のちの「日本のメディア王」が再び登場する。
(死体が発見された翌々日の)6月8日の午前11時ごろのことである。1人の青年を同道した紳士らしい男が、自動車を警視庁に乗りつけて監察官・正力松太郎に面会を求めた。この男は農商務省技師・山田憲(30)といい、正力監察官とは同窓の間柄だという。正力監察官に会った彼は「けさの新聞で信濃川で首無し死体が発見されたことを知ったが、その犯人はここに同道した渡邊惣藏(27)で、自分の家に同居中の者である。被害者は横浜市太田町1ノ22、外米輸入商・鈴木辨蔵(65)である。先月31日、鈴木が自分の家を訪れ、夜になったので渡邊に目黒駅まで送らせたところ、途中でけんかをしてステッキで鈴木の頭を殴り、誤って殺してしまい、その犯行をくらますために死体を信濃川に投げ込んだものである。けさ初めて知って驚いて、自首することを勧めて連れてきた」と言って、渡邊を引き渡して帰って行った。
御手洗辰雄「伝記 正力松太郎」は憲のことを「四高=旧制第四高等学校(現金沢大)=の後輩で、堀留署長時代に一度会ったことのある男であった」と記述。「話を聞いている中、正力の第一感は、これは怪しい、という疑問であった」「こやつ、共犯に違いない」と書いている。
一方、井上ひさし「信濃川バラバラ事件」(「犯罪調書」所収)は、警視庁の捜索係長が「犯人は山田憲です」と言ったのに対し、正力監察官が「信じられん。山田は帝大卒。末は大臣まで行く男だ。それに柔道をする人間に悪人はおらんよ」と言い切ったと記している。
正力も柔道の有段者だった。「警視庁史 大正編」も「新潟県警察史」も正力の判断については書いていない。どちらが正しいのだろう。
「この陳述は一応筋は通っているようであるが…」
渡邊は取り調べに対し素直に犯行を認めた。しかし、「警視庁史 大正編」はこう述べている。
「この陳述は一応筋は通っているようであるが、殺害の理由、死体切断の方法など、具体的なところにあいまいな点が多く、それを強く突っ込まれると返事に詰まり、果てはしどろもどろになって、話の前後が矛盾してくる始末である。こんな状態から、裏面に何か重大な事実が隠蔽されていることを感知した捜査陣は、山田憲追及の要ありとの意見が強くなった。ところへ、(新潟県警察部からの)山田憲取り押さえ方の飛電が着いたのである」