事件の背景や底流に関する論評も紙面に載り始めた。6月18日発行の19日付報知夕刊は「事件は現下の生きた問題であるコメに関連し、政府の無為無能の裏面を語っているように思わせる」と政府批判に結び付け、同じ日付の萬朝報は「道徳的修養」の必要性を求めた。
「所業は悪魔外道に等しきもの」だが、被害者も「米騒動の時に数十万円の巨利」
6月19日付東朝には「信念が弱いから起る 知識階級の犯罪 科学にのみ力を注ぐ 現代の教育法も惡(悪)い」の見出しで、農商務省で憲の同僚だった人物が「いかに誘惑の手が強くとも、拒絶する意志さえ強固ならば、それはいささかも問題にはならない」と断言。
雑誌「日本及日本人」を創刊した国粋主義者・三宅雪嶺は「古く官民に浸染せる 惡風に誘はれた」として「あまりに後始末が粗末」「首や足を切り離すなどは拙劣」と非難した半面、憲の陥ったのは明治以来の大悪慣例だと指摘。「自己の過ちであるとともに社会に罪なしとも言えない」と述べた。
同じ日付の東日の社説は「稀有の大犯行」の見出しで「山田憲の所業は悪魔外道に等しきもの」としながらも、辨蔵を「かの米騒動の時に数十万円の巨利を博した」と強く批判した。
果ては大正デモクラシーを代表する政治学者・吉野作造までが6月20日付時事新報で「事件は一種の変態犯罪で教育に及ぶ問題ではない」と断言。米価を下げることができなかった当局は怠慢、無責任で、申し訳ないではすまないと批判した。
全体として、犯行は凶悪で憎むべきだが、殺害された側にも罪があり、さかのぼれば政府の責任も否定できないという受け止め方が多かったようだ。
「鈴木のような奸商がいて暴利をむさぼるために不足する。彼のごときは速やかに葬らなければならない」
1919年9月16日、東京地裁で開かれた初公判で山田憲は「口を極めて奸商を攻撃」(9月17日付東朝見出し)した。同紙によれば、裁判長の尋問に対して憲は、苦学生や少女、芸妓に救いの手を差し伸べたと述べたうえ「米、株、両方ともやりました。要するに、知人の勧告もあるが、主に世の不遇者を救う趣意に基づいています」と自己弁護した。
最初から金を奪おうという考えはなかったと主張。「コメは実際不足していないのだが、鈴木のような奸商がいて暴利をむさぼるために不足する。彼のごときは速やかに葬らなければならないと決心しました」(東朝)と述べた。
殺害は金目的でなく、社会的な義憤からだったということだが、さすがに無理があった。この日の法廷は午前10時からだったが、午前6時ごろから傍聴券を配布していた書記2人が「殺到する群衆のために溝の中に押し倒されるやら、傍聴券を強奪されるやら、命からがら法廷の中に逃げ込む。二千余名の群衆はなだれ込み、広い階上階下の廊下という廊下をことごとく占領してしまう」(東朝)騒ぎに。