「憲は奸商退治の美名に隠れて自分の欲望を満たそうとしたもので、辨蔵を殺した目的は金銭」
その後の公判で憲は「バラバラにしたのは私ではない」「渡邊は殺しに関係していない」などと一時供述をふらつかせ、「従来の陳述を裏切て 山田憲新事實を告白す」(11月16日付読売)と報じられるなどした。
同年11月18日の論告で検察側は「憲は奸商退治の美名に隠れて自分の欲望を満たそうとしたもので、辨蔵を殺した目的は金銭」と指摘。証拠を隠滅して犯跡をくらまそうとしたことや、渡邊に罪を負わせようとしたことなどを非難して、憲と渡邊に死刑、山田庄平に懲役3年を求刑した。
対して弁護側はあくまで「憲等が犯行の動機は奸商征伐」(11月21日付東朝見出し)と主張した。そして同年12月2日の判決は――。
本日田山裁判長より 憲に死刑の判決 惣藏は懲役十五年
憲は裁判長にお辭(辞)儀、惣藏は意外の減刑ににつこりする、庄平は一年六ケ月
憲、庄平は直に控訴す
12月3日付時事新報の見出しは短い記事のようだ。判決は検察側の主張をほぼ認定。これに対して憲は「この刹那、山田憲は満足のごとく裁判長に最敬礼をした」(同日付読売)。弁護人への憲の談話が時事新報にある。
「惣藏は思ったより刑が軽くてうれしかった。庄平が執行猶予にならなかったのは遺憾である。私のことは何とも申しません。一切は皆さんにお任せする」
刑の確定。そして執行の日、憲の遺した言葉
1920年5月28日の控訴審判決は「殺害の動機が奸商退治にある」ことを認定。一審判決を取り消したものの、憲と渡邊の量刑は変わらず、山田庄平のみ執行猶予付きの懲役1年に減刑した。憲は上告したが、1921年3月10日、棄却され、死刑が確定した。
死刑執行は同年4月2日。4月3日付各紙は「餅菓子を食べ茶を飲んで 山憲の立派な死際」(東朝)、「悪人ながらも覚悟した山憲の最期」(東日)、「憲悠然と死に就く」(読売)と報じた。典獄(刑務官)に「大罪を犯したことは誠に申し訳ありません。死体が医学の研究に資するところがあるなら解剖していただきたい」(読売)と語り、書類に署名した。憲は獄中で仏教に深く帰依していた。
大富秀賢「新撰譬喩因縁集」(1932年)によれば、教誨師に「彌(弥)陀たのむ彌陀の心はわが心 今日は假(仮)寝の枕すつらむ」と口ずさんだ。
「大正犯罪史正談」は、憲が控訴審段階で一時犯行を否認したことについて裁判長に謝罪状を提出。そこには「私儀、最善の被告として法廷に立ち、謹んで心底より一切の大罪を陳謝し、潔く神のご命令に従います」とあったと書いている。
一方、獄中で何回か憲を見たことがあるプロレタリア作家、中西伊之助は「死刑囚の人生観」でこう書いている。「彼の顔は、その姿とともに甚だ沈痛な色が刻みつけられていた」「苦悶の象徴そのもののように暗かった」。