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「経済界は好況を満喫したが、賃金の上昇は物価上昇に遅れ…」

 最近は外米という言葉もあまり聞かないが、昔から日本ではコメの凶作、飢饉が繰り返し起き「既に恒常的米不足国となっていた」(「農林水産省百年史 中巻き」)。明治以降は輸入が常時行われており、笠信太郎「米穀関税調査」(1930年)によれば、二、三の時期を除けば、大体において増加傾向にあった。

 事件前年の1918年の輸入外国米は367万石(約55万トン)。ビルマ(現ミャンマー)、フランス領インドシナ(現ベトナム)が主な輸入先だった。

 1914年に始まった第一次世界大戦で日本の輸出は激増。外貨の増加は紙幣の増発となって物価は騰貴した。「農林水産省百年史 中編」によれば、大正6年、7年はコメが不作だったうえ需要増と投機で米価は一般物価を上回って暴騰した。

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 事件発覚後も「俄然、小賣(売)白米は空前の……殺人相場」(6月24日付國民新聞)という状態。「経済界は好況を満喫したが、賃金の上昇は物価上昇に遅れ、民心は不安定になった」(同書)。

 現在に通じる格差の拡大。それが爆発したのが1918(大正7)年7月、富山県をはじめ全国で民衆が起こした暴動事件「米騒動」だった。

事件の背景は…

 その直前の4月、政府は「米価抑制のため、外米の買い入れと売りさばきを政府で管理することとして『外国米管理令』を定め、外米は農商務省または、その指定した者でなければ輸入または移入(朝鮮、台湾から)してはならないこととして、資力と信用のある大商店4社を指定した」。「新潟県警察史」はこう書いて次のように続ける。

 当時山田(憲)は農商務省外米課の主任技師の地位にあり、外米買い付けのため海外に出張し、また、その管理のため、外米商とも接する機会が多かった。この外米指定商は非常に利益があるため、その後も指定追加の希望者が殺到し、さらに3名が追加され、なお指定追加の運動は後を絶たなかった。横浜市太田町の米穀商で百万長者といわれ、欲深く「奸商」ともうわさされた鈴木辨蔵も、指定を受けようと主任技師の山田を頼って、断られても断られても執拗に運動を続け、指定を受けられるならば相当の運動費を提供するともほのめかしていた。

 事件が起きた1919年、輸入外国米は約543万石(約81万トン)に激増。価格も産地で違うが45~75%も上昇した(「米穀関税調査」)。事件の背景はここにあった。

「首と手足をノコギリで引き切る」

 エリート官僚の殺人、バラバラ遺体、トランク詰め、電車で運搬、大河へ遺棄、偽装工作。世間をアッと驚かす要素満載の事件に、新聞各紙は記事が解禁された6月17日の夕刊から18日付朝刊をピークとして、連日センセーショナルな報道を展開した。

「死體の首と手足を鋸(ノコギリ)で引き切る」(6月18日付東日)、「活動寫(写)真に見る如(よう)な 稀(希)代の殺人犯」(同日付読売)、「怨念の固り凄くも 大河に漂ふ(う)大鞄(かばん)」「宵闇の鬼氣(気)!唸くがに(うめくがに=うめくように) 死胴!!現は(わ)れぬ」(同日付國民)……。

 おどろおどろしい見出しが目立つ。中でも同じ6月18日付東朝は、2ページにわたってほぼ全面をこの事件の報道で塗りつぶした。見出しは「資産百萬(万)の鈴辨」「共犯渡邊の人物」……。百万円は現在の約15億4000万円。

報道は過熱。プライバシーに踏み込んだ報道も(時事新報)

 果ては「物凄(ものすご)い犯罪の家へ 山田の母来る」や「自ら選べる夫定め 因果な戀(恋)の末路 不幸の折の温情に感激して結婚せる繼(継)子」といった関係者のプライバシーに踏み込んだ話題ニュースも。