日本を覆う長いデフレの時代。“住まい”という、生活に密着する市場では何が起きていたのか――。
全国に16万棟あると言われるマンションの中には、その後の建築に新たな流れをひっそりと作った、「記念碑的なマンションたち」がある。33年にわたってマンション市場を調査する井出武氏(不動産鑑定会社・東京カンテイ市場調査部上席主任研究員)がそれらを紐解く「伝説マンションBEST45」も、今回で最終回。
第7回では、バブル崩壊後のデフレ期に建築された「都心回帰」物件を中心に、写真や間取りとともに挙げてもらった。(写真提供:東京カンテイ。タイトルのカッコ内は「供給年/供給主体」)
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40 アイムふじみ野(1994年/東武鉄道)
1991年にバブル崩壊が起こり、以降10年間マンション価格は大きく下落した。当時、マンションの業界団体に勤務していた私はこの状況を、指をくわえて見ている他なかった。不動産は優良な資産として評価されなくなり、投資的な購入のほとんどが撤退。地価は下がり始めたため、マンションだけでなく、すべての不動産価格は下がっていった。
しかし、このデフレ期にもマンションは新たな方向を模索し、進化していた。バブル崩壊のわずか数年でマンション供給量は著しく回復しただけでなく、過去最高を更新するレベルになった。いわゆる「大量供給時代」の到来だ。価格が下がるのであれば、安い価格で欲しい人が買えるマンションを作れば良い。マンションが“大衆化”したのである。
とはいえ、いつ地価が下げ止まるのか分からない状況は続いていた。そこでデフレ期には、電鉄系や商社系デベロッパーなど安定した資金源を持つ事業者が中心となって開発を行い、大型JV(ジョイント・ヴェンチャー)が組まれてリスクを回避していった。その結果、バブル期よりも大型プロジェクトが数多く実現する時代となったのである。
埼玉県富士見市に1993年9月から分譲された「アイムふじみ野南一番館・二番館・三番館」(埼玉県富士見市ふじみ野西)は、バブル後のマンションの大量供給と、立地の「都心回帰」という現象において、まず思い出される物件である。
全体では11棟・1108戸の大型プロジェクトで、2003年と2005年にそれぞれ30階を超えるタワー棟が2棟竣工して事業が終わっている。
このプロジェクトは東武鉄道の単独事業だ。計画はもっと前からあったのだろうが、電鉄会社でなければこのタイミングで分譲するのはかなり難しかったのではないかと思う。
購入者の視点で考えれば、1986年頃からのバブル景気でマンションの価格は大きく高騰したため広い住宅を持つことは難しくなっていた。そのため、多くの購入希望者が我慢を強いられていた。
しかし潮目は変わった。マンション価格の下落に加え、住宅金融公庫による購入の後押しがあった。さらにこの時期は、大きな人口層をなす「団塊ジュニア世代」が住宅購入適齢期を迎えていたことも重なった。
このマンションは一番狭い間取りでも80.58㎡という専有面積の広さが特色だ。中心間取りは「3LDK+納戸」の90㎡台のプランである。このような広い間取りが導入された背景には、国が主導した「誘導居住面積水準」という考え方が反映されたと考えられる。
4人家族であれば91㎡程度の居住面積が必要で、この水準まで引き上げるべき――という考え方に基づき制度化されたもので、主として千葉ニュータウンなど住宅・都市整備公団の分譲物件で採用されたが、当物件は民間事業にも導入された例ではないだろうか。
広めのプランが多かったので、「家事をするにはもう一部屋欲しい」、「キッチンからの動線を増やして欲しい」、「浴室に採光があったらよい」という当時多かった住宅に対する「女性の声」が大きく反映されて作られている。
いまは「家事者=女性」という時代ではないが、当時はまだ「家の主たる使用者は女性なので、マンションも女性の声を反映すべき」とする社会の空気感が存在していた。