なぜ「桃園」と呼ばれるようになったのか
残念ながら橋は中野通りの拡幅工事の関係で昨年4月に撤去されてしまったが、この桃園橋の名は桃園川の名称ともなった「桃園」に由来する。
中野は徳川将軍家の鷹狩りの地になっており、1730年代には徳川吉宗の命により現在の中野駅南西の一帯に桃が植樹され、桃園と名付けられる。これにより一帯は庶民の行楽地として賑わうようになる。1770年代後半には早くも廃れていくが、桃園の名は地名に残った。
当時、桃園橋は石神井橋、石神橋と呼ばれていた。橋を通る道が当時は青梅街道と秩父往還を結ぶ石神井道であったための名称だろう。橋板は将軍の御成の度に専用のものに取り換えられたという。明治時代半ば以降、桃園橋と呼ばれるようになったようだ。
高円寺とほぼ同時期に始まった中野の区画整理…2つの地区で生まれた“違い”
中野地区の桃園川も、高円寺地区とほぼ同時期、大正末から昭和初期の区画整理により改修されて1本に纏められた。川の北側には宮園通り(現・大久保通り)が並行するように開通し、川沿いの地名も宮園通となった。この前後、桃園川は「宮園川」や「中野川」とも呼ばれていたという。
高円寺と少し違うのは、区画整理後の川沿いの地に、製菓、綿布、印刷、製本などといった町工場がいくつもできたことだ。これらは戦後には周囲の住宅地化の進展により移転していくこととなるが、暗渠沿いの雰囲気の違いの要因の一つとなっているように思える。
「桃園川」の成立
そして、川の名が桃園川と呼ばれるようになったのは、流域各地での区画整理が進み、川の改修が終わった1930年代後半以降のことだった。
改修前の呼び名であった上流の「千川用水」や下流の「善福寺分流」は、流れる水がどこからきているのかを指した名称だ。それは川の水が稲作に必要だったからこその区別であり命名だったといえよう。