青梅街道から300メートルほど進むと桃園川「本来の源流」へ
青梅街道から300メートルほど進むと、暗渠は本来の桃園川の源流だった、天沼弁天池跡からの暗渠と合流する。阿佐ヶ谷までの桃園川流域はかつての天沼村。その地名は雨水が溜まってできた沼を指すといい、大雨が降り続くと一帯は沼のように水浸しになったという。
その原因は一帯の地下に「井荻・天沼地下水堆(すいたい)」が分布していたことによるものだった。
「地下水堆」は地上の地形に関係なく、地下水の水面がドーム状に盛り上がって分布する様子を指す。その頂上はちょうど天沼弁天池の付近にあった。
池は窪地でこの地下水面が地上に露出することにより成り立っていた。そして大雨が降ると地下水面が上がり溢れ出て沼のようになっていたようだ。
池は1955年頃には湧水が枯渇。2007年に天沼弁天池公園になった。
現在の池は本来の位置より北寄りに、地下水を汲み上げて復元されたものだ。かつて池の中島に祀られていた弁財天は公園の片隅に今でも祀られている。
桃園川の暗渠は道路の歩道となったり、細い緑道となったりしながら、静かな住宅地の中を東へと続いていく。天沼地区では1931年から1939年にかけ区画整理が実施され、水田は埋め立てられて住宅となり、何本かに分かれて浅い谷の水田を巡っていた桃園川の流路は1本にまとめられた。現在辿れる暗渠はこの区画整理後の姿だ。それは灌漑用水から排水路へと川が姿を変えた記憶でもある。
区画整理されなかった阿佐ヶ谷
天沼から阿佐ヶ谷に入ると、この暗渠の様相は変化を見せる。辿ってきた緑道の北側に並行してやや放置気味の緑道が、そして南側には細い路地の暗渠が現れる。
そして中杉通りを渡ると、メインの流路は車道になっているものの、最大で3本に分かれた並行する暗渠が、細い路地や蓋掛けの暗渠として並行しながら家々の隙間を迷路のように続いている。
阿佐ヶ谷暗渠ラビリンスとも言うべきこの暗渠網は、阿佐ヶ谷では全面的な区画整理が実施されなかったことによるものだ。
阿佐ヶ谷地区では、桃園川流域では最も遅い1928(昭和3)年まで稲作が続いた。そしてその頃までには川のすぐそばまで宅地化が進んでいたため、川沿いの水田に沿っていく筋にも分かれて流れていた水路は、区画整理などで統廃合されることなく、ほぼそのまま残された。