藤井は歩打ちを無視して銀を打ち込んだ!
昼食休憩があけ、羽生が銀を取ると、藤井は予想されていた銀ではなく、桂で取り返した。なるほど、銀取りに歩を打ってきたら、銀を見捨てて攻めるのか。じゃあ攻め合いに活路を見出すしかないかと検討しなおす。羽生は1時間以上の長考で、玉の弱点であるコビンに歩を打った。
まあここは受けに回るだろうと話していると、なんと藤井は歩打ちを無視して銀を打ち込んだ!
えっ、もう決めにいくの? しかし、検討してみると、これで決まっている。藤井の角が絶妙に利いていて、攻めると逆にその角が働く。そうか、歩を突かせたのは銀を打つスペースを作るためだったのか。コビン攻めすら通してくれないとは、なんて藤井は恐ろしいんだ。
羽生はやむなく飛車を引くが、20手以上前に打った自陣角が、5筋の歩を取って、ど急所に飛び込んだ。
まだ15時半を過ぎたばかりだというのに、本来ならばこれからが佳境だというのに、もう検討するところがなくなった。
深浦は「藤井さんの球が速すぎますね。こちらはボールがキャッチャーミットに収まってからバットを振っている感じですよね」とつぶやいた。
「羽生さんがいままでタイトル戦でやってきたことを…」
対局室のモニターを見ると、羽生は左手の肘を脇息におき、頭を抱え、右手を床につけ、うつむいていた。七番勝負にずっと随行していた記者が「羽生先生がこんなに辛そうに、悔しそうにしているのを初めて見ました」と嘆息し、他のスタッフも皆うなずく。
私は思わず目をそむけようとしたが、深浦はずっとモニターを見ていた。
深浦は『証言 羽生世代』(大川慎太郎著 講談社刊)のインタビューで、羽生はどういう存在かと聞かれ「ずっと目標にしてきましたし、自分の限界を引き出してくれる相手でもあります。だから羽生さんと指すのは本当に楽しいです」と語っている。私も、ずっと羽生将棋を追い、学び、驚き、そして文章に綴ってきた。
その羽生の辛い姿を見たいわけがない。でも、深浦が目をそらさないならと、私もモニターを見つめた。
深浦は「私が王将戦で羽生さんに挑戦したときは(2009年、第58期王将戦七番勝負)3勝2敗と追い込みながら、底力を出されて連敗したんです。そのときと同じことを藤井さんがやっています。羽生さんがいままでタイトル戦でやってきたことを藤井さんにやられているんです」と語る。
私が「金沢での第3局のとき、森下さん(卓九段)が、まったく同じことを言っていましたよ」と返すと、「兄弟子もですか。経験者は語る、ですね」と言い、二人で笑った。