「事件なんて滅多に起らない村だから何やってんのかなぁって思ったんだよ。そうしたら、しばらく経って、おトラさんのことを母親のお龍さんが食べちゃったって聞いて、驚いたんだ」
1945年に群馬県の山奥で起きた衝撃事件。なぜ母は義理の娘を殺害し、その亡骸を食べなければいけなかったのか? ノンフィクション作家の八木澤高明氏の新刊『殺め家』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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「ちょうど山から下りてきたら、おトラさんの家のところで警察官が土をふるいにかけているのが見えたんだよ」
太平洋戦争の終戦から2ヶ月ほどがすぎた1945年10月のこと、群馬県のとある村に暮らす、川島春治さんは山で薪拾いを終えて、家へと帰る道すがら、普段は見かけない光景を目にした。何人もの警察官がおトラさんという17歳の少女が暮らしていた家のまわりの土を掘り起こして、何かを探しているのだった。
「事件なんて滅多に起らない村だから何やってんのかなぁって思ったんだよ。そうしたら、しばらく経って、おトラさんのことを母親のお龍さんが食べちゃったって聞いて、驚いたんだ」
母はなぜ義理の娘を殺し、食べたのか――その家庭環境
義理の娘を殺し食べてしまうという事件を起こしたのは、この村に暮らしていた山野朝吉の再婚相手だった龍32歳。
彼女は22歳の時に最初の結婚をしていて、前夫の間に娘ができたが、夫との折り合いが悪く離婚。その娘を連れて20歳以上年が離れた朝吉と再婚したのだった。朝吉は、前妻との間に長女、次女のトラ、双子の4人の子供がいた。結婚後夫婦の間には2人の子供ができた。計7人の子供たちのうち、龍と血が繋がっていない子供たちはトラを除いて奉公に出されていた。
ひとつ屋根の下に朝吉夫婦、龍の長女、トラ、朝吉と龍の間にできた2人のこどもの6人が暮らしていた。朝吉は土地を持たない日雇い労働者で、一家の生活は傍から見ていても厳しかった。朝吉一家の近所に暮らしていた春治さんが言う。
「今はゲートボール場になっているところに、朝吉さんの家があったんだ。家なんて呼べるもんではなくて、小屋みたいなもんだったけどな。それだって、自分で建てることができないで、村の人が建てたって聞いてるよ。どこの家も戦争中は作ったイモでもなんでも供出しなければならなかったから、生活は厳しかったけど、土地が無かった朝吉さんのところは、大変だったと思うよ」
一家の経済的な貧しさは、朝吉の性格的な問題も関係していた。朝吉は食い物に困らなければ、日雇いの仕事に出ない怠惰なところがあった。そして、朝吉の次女トラも精神的な障害を抱えていて、人と満足に話すことができず、学校にも通えなかった。
「昔は今と違って、学校に通わなくても、とやかく言われる時代じゃなかったから、トラさんだけでなくて通ってない子供も多かったけど、トラさんはボーッとしているところがあって、誰とも話すわけでもなく、家の前によく座っていたよ。朝吉さんはほとんど家の中にいて、外に出て来ないんだよ。傍から見たら怠け者なんだろうけど、生まれつきそうだったわけじゃなくて、元々はここから歩いて30分ほどの集落のけっこうな家だったそうだ。人に騙されたかで、財産を失って、ここに来たって話だよ。それ以来、頭がおかしくなっちゃったじゃないけど、無気力になっちゃったみたいだな」
当時の新聞報道などによると、被害者の父親は低能であると書かれていて、春治さんの見解とは違いがある。果たして、どちらが正しいことを述べているのか、今では知ることはできない。