当時でも、かつお節を使っているレストランは存在した。しかし、裏取引で調達されていたり、賞味期限がとっくに切れていたり、質の悪いものを使っていたりするケースも多く見られた。
自社のかつお節が日本の5倍の値段で売られているのを目の当たりにした。知らないところで流通していたため、和田久としても為す術がなかった。
〈こんな味の日本料理が海外に伝わっているなんて、納得できない。正規の流通経路で製品を作り、ちゃんと営業して回りたい。製造側であるうちが、何も努力しないのはおかしいだろう……〉
かつお節店としての使命感が湧き上がってくるのと同時に、ヨーロッパ市場におけるかつお節の可能性を強く感じていた。
「戻るなら社長としてじゃないと戻らないよ」
和田久は、大正14年(1925年)に祖父の久之さんが、日本橋の魚市場でだし粉店を立ち上げたのが始まりだ。その後、築地に拠点を移した。2代目である父親の昇三さんを経て、2011年に3人兄弟の長男で当時30歳だった和田さんが3代目に就任した。
父親は、こだわりの商品をお店で一生懸命売るのが好きだった。しかし、和田さんは違った。足を使い外で売って歩く営業が性に合う。それは戦後に、台湾などでかつお節工場を立ち上げた祖父のやり方に似ていた。
和田さんの足で稼ぐ気質が開花したのは大学生のころ。語学学校へ通うためアメリカへ行くも、すぐに辞め、車や洋服などの輸出会社を立ち上げた。アメリカで2年間、ひとり社長として働いた。
日本に戻ってからも、父親の下では働かず、鹿児島の枕崎に下請け工場「鰹久工房」を設立。和田久の製品だけではなく、日本中の削り節加工工場の特注品の下請けを行った。そこで、経営もしながら営業にも力をいれた。
「北海道から鹿児島まで、日本列島を車で回りながら営業しました。『下請けの仕事はないですか?』と各地の工場に声をかけ、買っていただいたお客様には『ありがとうございます』とお礼に行くなどして。そしたら、『九州から熱心で面白い奴がきたぞ』と板前さんたちから次々と注文が入るようになりました」