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「文句をいっても仕方がない」という「過剰適応」

 戦時下の軍人や官僚たちも、決して狂っていたわけではない。にもかかわらず、空虚な精神論が蔓延ったのは、不可能な状況に無理やり適応しようとしたからだ。

 国力も足りない。物資も足りない。明らかに米英のほうが強い。必敗なのに、必勝といわなければならない。ではどうするか。精神力だ。ピンチはチャンスだ。われらに秘策あり。こう叫ぶしかない。狂気はある意味で、合理的な帰結だったのである。

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 それゆえ、東京五輪に関するおかしな状況には異議を唱え続けなければならない。そこに過剰適応して、「もう開催するのだから、文句をいっても仕方がない」「一人ひとりがボランティアなどで協力しよう」などといってしまえば、問題点が曖昧になり、関係者の責任も利権も問われなくなってしまう。

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 たとえば、つぎのように――。

「敵は本土に迫り来つた。敵を前にしてお互があれは誰の責任だ、これは誰の責任だと言つてゐては何もならぬ。皆が責任をもつことだ。(中略)今や『我々一億は悉く血を分けた兄弟である』との自覚を喚び起し、困難が加はれば加はるほど一層親しみ睦び、助け合ひ、鉄石の団結をなして仇敵にぶつつかり、これを打ち砕くの覚悟を固めねばならぬ」(『週報』1944年7月19日号)

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精神論とその犠牲の繰り返しは御免こうむりたい

 疲弊した現代の日本で、しかもよりにもよって猛暑の時期に、やらなくてもよい五輪を、なぜ開催しなければならないのか。それをねじ込んだのは誰なのか。今後本当に効果的な猛暑対策は取られるのか。

 現在と戦時下では多々差異があるとはいえ、精神論とその犠牲の繰り返しは御免こうむりたいものだ。だからこそ、これから「感動」「応援」の同調圧力が高まるなかでも、こうした問いは絶えず発し続けなければならないのである。