どちらが「情死に誘ったのか」という論点

 この事件では男女どちらが「情死に誘ったのか」が1つの論点。有島武郎の親友、足助素一は「僕は有島氏はいわば女の道連れになったのではあるまいかとも思う」と語っている(7月10日付読売朝刊)。

 國民連載の「波多野秋子の事」で友人の石川六郎は、秋子が事件の3年前から顔のやつれ、容貌の衰えを気にしていたと指摘。秋子が「私はつくづく死んでいく人がうらやましくなりました」と手紙に書いたことを明かしている。裏付けはないが、秋子が結核だったと書いたものもある。

 一方、農場の解放、財産放棄など有島武郎の言動を見ていると、やはりそのベクトルは不倫を抜きにしても死に向かっていたように感じる。事件13年後の1936年4月26日付読売文芸欄「芸術家自殺原因論」でプロレタリア作家の貴司山治は武郎について「彼は人道主義的な自己の思想上の制約性を超えかねて(たお)れた人だ。波多野秋子は死の伴走者にすぎない」と言い切っている。

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有島武郎と波多野秋子(『新潮日本文学アルバム9』より)

 死は他者が介入できない個人の自由の世界だ。神谷忠孝「有島武郎と波多野秋子に関わる新資料について」=『資料情報と研究2009』(北海道立文学館)所収=は「2人の春房宛ての遺書に共通しているのは謝罪と感謝である」とした。

 そうだろうか。春房宛て武郎の遺書の「私達」の頻発は異様なほどだ。あれは謝罪と感謝の言葉の裏で「死によって愛を貫いた」と勝ち誇った言葉と捉えるのが自然なのではないか。石川六郎の「波多野秋子の事」最終回(1923年7月24日付國民朝刊)もこう締めくくっている。

「次々に発表された2人の遺書を繰り返し繰り返し読んだ私は『まるで凱歌だ、死の勝利者だ!』と心で叫んだ」

【参考文献】
▽『中央公論社の八十年』(中央公論社、1965年)
▽木佐木勝『木佐木日記第1巻』(中央公論新社、1976年)
▽半沢成二『大正の雑誌記者』(中央公論新社、1986年)
▽川村政明『新・日本文壇史第1巻「大正の作家たち」』(岩波書店、2010年)

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