15歳の僕が仏三つ星シェフになるまで

小林 圭 レストラン「KEI」オーナーシェフ
ライフ グルメ
『ミシュランガイド 2020』仏版で、3つ星を獲得したパリのレストラン「KEI」のオーナーシェフ、小林圭氏(42)。星の数でレストランを格付けする『ミシュランガイド』は、約30カ国で出版されているが、評価が最も厳しい本場の仏版での3つ星は、日本人初の快挙。ミシュランは「風味の真の名人。正確で綿密、美を追求している」と称賛している。

 小林氏は、長野県諏訪市出身。長野や東京でフランス料理の修業を積んだ後、1998年に渡仏。各地のレストランで働いた後、パリで仏料理界の巨匠アラン・デュカス氏のレストランでセカンド(シェフの下)として働き、2011年に自身の店「KEI」を開いた。

10歳から料理を遊びで作っていた

「料理」に関心をもったきっかけは、両親にあったように思います。父の仕事は「割烹」で、母は「洋食」。買ってきた出来合いのものを食べていた家庭もあるなかで、うちはすべて母の手料理。とにかく「料理」が身近にありました。

 そんな環境で「料理」は自然と好きになり、10歳頃から兄と一緒に遊び心で料理を作ったりしていました。とはいえ、幼少期から料理人になろうと思っていたわけではありません。

小林圭氏
 
小林氏

3つ星シェフをテレビで見て

 15歳の時のことです。テレビで3つ星シェフだったアラン・シャペル氏のドキュメンタリーを見て、白の上着、黒いズボン、白い前掛け姿のかっこよさに一目で魅せられて、「自分もシェフになりたい!」と思ったんです。

 とはいえ、(地元の方には申し訳ないのですが)長野育ちですから、ちゃんとしたフレンチなど食べたことがない。ですから、何も知らずにこの世界に飛び込んだんです。

 すぐに行動に移しました。まず押しかけたのは、長野の「東急ハーヴェストクラブ蓼科」という会員制ホテル。数年前に亡くなられた中村(徳宏)シェフは、フランスに憧れ、フランス人と一緒に仕事をした経験もあり、フランスのコンクールにも参加していました。とにかく勉強熱心で、入るとすぐに「フランス人とは?」「フランス料理とは?」という教えが続き、僕も1週間くらいでフランスに行きたくなったほど。

 シェフから叩き込まれたのは、「基礎を学ぶ大切さ」。人との接し方、目上の人との接し方、料理に対する姿勢など、「料理人」である以前に「1人の人間」としての心構えから教えていただきました。15歳から19歳まで、本当に一生分くらい怒られた(笑)。

 中村シェフから言われたのは、「フランス帰りは日本にもごまんといる。だから、いいシェフを紹介するからまずは東京に出て、帰国後の足場をつくっておきなさい。その上でフランスに行けばいい」と。それで清水(郁夫)シェフを紹介していただき、東京で2年弱、修業を積みました。

 そして1998年12月、21歳でフランスに来ました。その冬は、氷点下10度とか15度を記録するほど、とにかく寒かった。

 当初はブルターニュに行くつもりでした。フランス料理は地方料理の集合体。だから、地方を見ないとフランス料理は分からない。

 ところが、いきなり立ち往生です。雇ってもらうはずのレストランに話がうまく伝わっておらず、何十軒回っても雇ってくれるところはなく、生活費も尽きて、いったん帰国しました。

 しかし諦めませんでした。1カ月後、すぐに再渡仏し、南部ラングドック・ルーションの「オーベルジュ・デュ・ヴュー・ピュイ」というレストランで働けることになったんです。ジル・グジョン氏がシェフを務める1つ星の店(現在、3つ星)で肉部門の責任者になりました。

 フレンチの修業は、通常、「魚→肉」という順序を経ます。しかも当時は、「肉はフランスの方が上」と言われ、清水シェフからは「肉はさわりを日本でやって、肉の基本の解体などはフランスでできるから現地で学ぶのが良い」と教えられ、日本での6年間の仕事で、ある程度魚はできるようになり、シェフからも、「魚は問題ないはず」と太鼓判をもらっていました。フランスでの最初の店からは、「魚をやれ」と言われたのですが、そういう経緯があったので、「魚アレルギーだから」と言って断って(笑)、肉をやらせてもらったんです。

厨房に入れば何とかなる

 最低10年は修業するつもりでフランスに来ました。しかし、当時21歳で、「滞在許可証」など初歩的な知識もなく、「観光ビザから就労ビザに変更できる」と信じて来てしまいました。それで、3カ月の観光ビザが終わる時に日本に帰り、学生ビザを取り直して、研修制度を利用して働き始めたんです。

 フランス語も、日本の厨房で使われていましたが、ちょっと勉強していた程度。しかし日本でもフランスでも、料理人という職人の世界では、「言葉」よりも「行動」です。15歳から19歳の間に、「人の仕事をよく見ろ!」と怒られながら、「この人は今何が必要なのか」を察する人間観察力は、ある程度、身についていました。上の人が必要なものをさっと出し、良きタイミングで自分の調理をパスする。そういうサポート力こそ、料理人として磨き上げるべき「技術(テクニツク)」なんです。

 当初こそ立ち往生し、働けない間は困りましたが、異国の地でも、いつも思っていたのは、「厨房にさえ入れば何とかなる」ということ。

 日本での6年間は、年364日くらい包丁を持って厨房に入っていました。休日も他所で研修です。東京では、テレビもラジオもない生活。清水シェフの家には、フランスの本や映像がたくさんあり、それを借りて貪るように吸収しました。最初のジル・グジョン氏の店では、朝8時から、早くても夜中の2時まで猛烈に働きましたが、日本でもそういう生活をしていたんです。

 その後、プロヴァンス地方(ル・プリウレ・ア・ヴィルヌーヴ・レ・アヴィニョン)とアルザス地方(ル・セルフ・ア・マルレンアイム)の星付きレストランを経て、2003年、パリの3つ星レストラン、アラン・デュカス氏の「プラザ・アテネ」に入りました。

 3年くらい自分なりにリサーチしたところ、「ジャン=フランソワ・ピエージュ氏がシェフをしているプラザ・アテネがいい」と誰もが口を揃えて言うんです。「3つ星」とはどういうところか自分の目で確かめたいという思いもありました。

3つ星店で働く

 ピエージュさんからまず教わったのは、なぜこれだけの人数かということ。

 厨房は洗い場を入れて35人、サービスは20人、事務関係は5、6人。約60人のスタッフで45人のお客様に応対する。だから完成度が高くなるんです。この規模は世界中を見てもそんなにありません。それまで働いた店は、15人くらいのスタッフで60〜70人のお客様に対応していましたから、貴重な経験でした。

 実は、2つ星と3つ星の違いは、「料理の美味しさ」の違いではありません。サービスも含めた店としての「ディテール」の違いです。「この店は3つ星より美味しい」などとよく言われますが、ビストロでもカフェでも、いい料理人がいい素材を使って作れば美味しいに決まっています。

 そのピエージュ氏は、自分が入った1年目で「オテル・ド・クリオン」に移りました。「一緒に」と誘われましたが、「プラザ・アテネ」に残り、クリストフ・モレ氏(現在はシャングリラホテルのシェフ)がシェフとなり、その下の「セカンド(スーシェフ)」につきました。

 モレ氏のやり方は、ピエージュ氏とは100%違いましたが、2人のシェフを間近で見られたのは大きなことでした。

「アラン・デュカスの店なのに、デュカス氏が厨房にいない」などとジャーナリストたちは言いますが、「総指揮」の立場から、しっかり目を光らせています。厨房にもよく来ていたし、試食もよくしていた。そんな時は、2人のシェフは本気でやっていました。

「自分の歴史」が「わが師匠」です。自分が歩んできたすべてのことに意味があって、だから今の料理があり、今の自分がある。だから、1人の師匠がいるわけではない。しかし、デュカス氏の下で仕事ができたのは、自分にとって素晴らしい財産です。

 デュカス氏の哲学は理にかなっています。彼が最も重視する「技術(テクニツク)」とは、いい材料を見つけること。単にいい材料を見つけるだけならそれほど難しくありません。難しいのは、そのいい材料を毎日、厨房に仕入れること。これは、業者との信頼関係が不可欠です。生産者に「これをぜひ使ってほしい」と思ってもらえるかどうかにかかっています。その上で、普通に言われる「技術(テクニツク)」、つまり切り方、アセゾネ(味付け)、火の通し方が重要となりますが、「素材」がなければ何も始まらないんです。

 自分の世界観を伝えるには、「食材」だけでなく、コップもお皿も大事な「素材」です。お皿が自分に合っているかどうか、こう思ったからこういうものを作ってほしいと言える作り手との関係性が大切です。

 コップやナイフやお皿もきちんと洗って、毎朝磨いてくれる人がいるから出せる。そういう物と人がいて初めて成り立つ世界。そしてシェフである自分は、厨房で最高の料理を作って盛り付ける。それをサービスの人がお客様に提供する。

 そのすべての流れが大切だということをデュカス氏から学びました。他のシェフも言っていたことですが、彼のその思いは、半端なものではありません。

 とくに食材に関してはいっさい妥協しない。高級食材の中のトップを使う。食材選びがセカンドの仕事でしたから、これで目が肥えました。

 仕事を任されるには信頼関係が必要です。自分以外はフランス人ばかりで、セカンドである自分の下に30人の料理人がいます。例えば、シェフが何の材料があるか聞いてきて、それを使って翌日に何か作っておけと言う。すると最低2品は作っておかなければいけない。シェフのモレさんのために作り、デュカスさんにも納得してもらえるものを作る。それを下の30人がじっと見ている。だから失敗できない。万が一失敗しても、それをどうやって取り戻すのかを見せる。

「プラザ・アテネ」にはトータルで7年いて、そのうち4年はセカンドを務めましたが、この経験が今に活きています。

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source : 文藝春秋 2020年4月号

genre : ライフ グルメ